2021年 10月 19日
#750 ショパンコンクール、反田恭平のファイナル演奏
前の2人を聞いてからこの人の演奏を聞くと別次元に連れて行かれた気がする。ほとんど完璧だと思う。やっぱりコンチェルトって、別物だと思った。当たり前だけれども、オケと独奏者が融合して初めて音楽になる。言ってみればダンスだ。別々の作業をしているわけでないからこそ、経験が大きくものを言うし、大舞台で踊り慣れたSoritaに有利なことは間違いない。一般の演奏会でもオケと独奏者がバッチリあうなんてことは滅多にないが、信じられないことにコンクールの一発勝負の舞台でそれができているのが信じられない。Soritaがオーケストラをうまくコントロールしているように聞こえた。第1楽章、さすがに出だしはやや固かったが、展開部あたりで力が抜けて、いい感じで第2楽章に入ることができた。緩徐楽章を例によって叙情なしで、しかし弱音部に広がる底なしのダイナミックレンジで、逆にオーケストラの音量をコントロールしていた。第3楽章は完璧なタイミングでの入りと直後のピアノ自体が跳ね出すような軽快なテンポ、そして全曲を締めくくるコーダのドライブ感と左手のインパクト。あと、余計なことだけど、演奏後に聴衆に向かってお辞儀をしてホールを見渡したSoritaの目に「この光景を忘れないでおこう」と彼の音楽に似合わず、感傷的になっているのが見て取れたのが印象深かった。
ともかくこんなに個性的な音楽を生み出す人物がいると思うと、改めて音楽の地平の広さに感動してやっぱり泣けた。ものの哀れが身体に沁み込んでいる日本人が叙情を廃し、透徹した音楽を作ることができるなんて、戦後も遠くなった、と昭和のじいさんは思ったのだった。
2021年 10月 17日
#749 下仁田ネギコンテスト/ショパンコンクール、ファイナリスト決定に思う
好きだった進藤実優さん、ファイナルに進めず残念だった。一クラシック音楽ファンとしては「審査員は音楽が分かっていない!」と言いたいところだが、間違いなく、わかっていないのはわたしだ。
たまたま昨日、ヨーロッパの合唱団が歌った日本の合唱曲を聴いたが、技術的にはうまいのに何だか変だ。日本語は結構しっかり発音しているが、全体を聞くと文章になっていないのである。
たぶん日本人の私にはショパンの、ポーランドの、ヨーロッパの、歌が、踊りが、わかっていないのだ。だから頭の中で曲を解釈しようとするし、精神的な意味を探ったりもする。そして自分が理解できる音楽、演奏を「おー、この人スゴい!」と感じるのだ。つまり自分が理解できる音楽をやってくれるから、この人は音楽をわかっている、と=自分は音楽をわかっている、と思ってしまうのだ。クラシック音楽ファンの、ひいきの音楽家というのは、きっとそうやって生まれていくのだろう。クラシック音楽はドイツ、オーストリアを中心に発達してきた歴史の中で、幸いなことにベートーヴェンが精神性を持ちだしてくれた。そのおかげでクラシック音楽は民族性を超えて、コスモポリタンになったんだと思っている。だから日本のクラシックファンはベートヴェンが好きなのだ、自分にわかる音楽だから。
言葉を替えれば、わたしがショパンが好きじゃなかった理由は、彼の音楽がわからないからだ、ということが今回のショパンコンクールで明らかになった。さらに明らかになったことがあって、音楽って、やっぱり聞けば聞くほど好きになってくる。それはつまるところ聞けば聞くほどわかってくるからなのだ。で、今回、2週間近く、ほぼ毎日8時間ショパン漬けになった結果として、少なくともコンクール前よりショパンが嫌いじゃなくなった。第1次選考通過者の日本人を聞き終わった時点では、もうショパンは勘弁してくれ! という気持ちが強かったのに……うーん、正直に言うと、今は好きな方にやや傾いているかもしれない。たぶんこのコンクールが終わったら、20年以上ぶりにアルゲリッチ、ポリーニ、ポゴレリチ、ピリスあたりを聞き直すことになるだろう。きっと新しい発見があるはずだ。
しかしそんなわかりにくいはずの音楽だというのに、なぜ日本人にショパン好きが多いか? それは戦後の高度成長と共に各家庭にあまねく広まったピアノ教育の興隆の力に外ならない。ピアノを習った少年少女たちがバイエル、ソナチネと進んでいく先に見えているのはショパンだったのだ。憧れのショパン。たぶんこのショパンコンクールを観ている日本人で過去にピアノを習っていたことがある人の比率はかなり高いと思う。ピアノ教育全盛の中から中村紘子が世に出て、内田光子がつづいた。今回も3次予選には23名中、5名の日本人が残ったが、未だに日本の音楽界の底辺は他の国にくらべてかなり広いのではないだろうか。日本の高度成長期をなぞるように経済的に豊かになった中国人のエントリーが極端に多いのは、まさしく底辺が広がっているからだと思う。今回聞いてみて、中国人の演奏者には個性的な演奏をする人が多かった。どれも私の耳には新鮮に聞こえた。しかし3次に残ったのはひとりだけだった。やっぱり、まだまだショパンの音楽というものを理解しきっていないのかもしれない。
逆にこれまで入賞者を輩出し、ショパンの音楽については師弟ともに理解しているはずの日本人からこれまで優勝者が出てこなかったのは(音楽に限らず)日本の教育が導いてきた画一性のはずで、簡単な言葉でいうと個性不足だ。
ところが、今回のファイナルに残った反田恭平と小林愛美、とうとう日本にも突出した個性を持つピアニストが現れたという印象が強い。反田と小林の音楽はそれぞれ個性的で、しかもほとんど対極にある。力強い反田と繊細な小林、叙情を避ける反田と叙情に大きく傾いている小林。私が小林の音楽を理解できているかどうかは甚だ不安だが、この人の音楽にはやや中毒性があると思う。聞いていくうちにじわじわハマっていくというか、独特の間(特に弱音域での)にやられるのだ。しかしそれにしても精神的解釈に傾き過ぎた、言わば禅的な(私の耳にはそう聞こえる)このショパンがファイナルまで残ったのは、正直なところ意外だ。だったら進藤も残せよ! と言いたくもなるが、まあ、これでグチはおしまいにして、ファイナリストたちの演奏を楽しみに待つことにしよう。でもさあ、コンチェルトって、やっぱり繊細さよりも、ダイナミックさが強みになるなんだよねえ。12人のファイナリストの中では、その点で反田がかなり有利だろうなあ―。もしかして、初の……がありうるかもねー。
話はいきなりワルシャワから群馬に飛ぶが、私はネギが大の苦手だ。長ネギは死ぬほど嫌いだし、タマネギは煮物でないと食べられない。2週間、下仁田かどこかでネギコンテストやってくれると、もしかすると好きになるかもしれない(爆)!
2021年 10月 14日
#748 ショパンコンクール ステージ3 進藤実優さんの応援団です!
今日からショパンコンクールの3次が始まった。昨日宣言したように、ドシロートの勝手な批評は止めて、今日から進藤実優さんの応援に回ることにする。で、早速初日の最終ステージで彼女の出番がやってきた。
・この人、曲、フレーズ、旋律によって、音色や表情が変わるところが最大の魅力だが、ことに高音域の澄み切った音が好きだ。前の演奏者と同じピアノを使っているとは信じられないほど音が違う。
・マズルカの4曲目の出だし、涙なしには聞けない。とてつもないニュアンスだ。
・この人のミスって、まさにミスタッチで、大半の場合、隣の鍵盤に触っているだけで、大きな破綻がない。指が回らないと言うことがほとんどない。
・曲を解釈していないと思う。音楽の波に乗ることだけに集中しているような、その自然さがいい。でも聞きようによってはムチャクチャ不自然(な速度)に聞こえていることも理解はできる。でもわたしは彼女はひたすら音楽をやっているだけだと思う。
・ソナタへの入り、仕切り直しの2度モーション、あれはなんだったのか? 聞こえない音楽の波に乗るタイミングを探していたのか?
・1楽章の無調っぽい混濁した音楽のなかからテーマが出てくるところの美しさったら!
・こんなこと言っても意味がないけど、ピリスのシューベルトの即興曲と音楽の方向性が似ている。無用な解釈なんてせずに、楽譜の中に音楽を探しているような演奏だ。だから音楽がいろいろな方向へ揺れる。テンポも激しく揺れる。その非ショパン的ともいえる音楽を果たしてショパンコンクールの審査員が許容するのだろうか。ウチはシューベルトコンクールじゃありませんから、とか。そこが見所だ。でもショパン嫌いをショパン好きにする音楽というものを認めないと将来はないぞ! と一応脅しておく。
・自分を救いがたいほどのロマンティストだと言ったグールドの言葉を思い出した。
・3楽章のテーマに回帰したとき、なにかを諦めた人が戻ってきたような風に聞こえた。
・4楽章の入りは完全に3楽章を受けた沈痛さで入り、スゴい緊張感だ。
・ただソナタ全曲を聴いて、この人ならこの名曲中の名曲をさらに良く弾けるはずだと思ったことは確かだ。ベストの演奏ではなかったと思う。本人としての満足度はどうなんだろう。まだもう少しいけたはずだが、あるいはその前のマズルカとロンドが素晴らしすぎたのかもしれない。
・ひとり前の演奏者、中国のHao Raoもかなり良かった。聴衆の拍手の長さは進藤さん以上だったし、なにしろ音楽に勢いがあった。なかなか熾烈な争いになってきたぞ。ねえ、審査員の皆さん、レベルが高いからファイナルに13人とか言わないよね(爆)!
・がんばれ進藤さん、心から応援している。