人気ブログランキング |

#721 スイーツ人生

#721 スイーツ人生_a0113732_23400302.jpg


先日、妹から実家の部屋を整理したいという連絡があり、親孝行に付き合った。敬老の日を意識したのだろうが、なかなか見上げた心掛けである。おそらく兄の教育が良かったのだ。

で、当日その部屋に足を踏み入れてみると、母が捨てられなくて困っている妹の嫁入り前のあれこれやら、彼女の家の押入れに収まりきれない着物やらなにやらで、部屋が膨れ上がっていたのだった。

「なんだい、みんなオマエのじゃん」

おそらく兄の教育が悪かったのだ。

ホームセンターに収納グッズの買い出しに行き、その日の午前中にわざわざ母がバスに乗って駅前で買って来てくれた押し寿司弁当を食べ、重い腰を上げて例の部屋の整理をして、人心地ついたところでお茶の時間になった。

 妹が差し入れに持ってきたのが写真のクッキーだが、知っている人はいるのだろうか? と問いながら、まちがいなく食いしん坊のあなた(不特定多数、でもきっと女性)なら知っていると確信している。

「紹介がないと買えないのよ」

 と妹はやや恥ずかしそうにそう言って、ピンク色の缶の蓋を開けた。

 別になんてことはない普通のクッキーである。まあちょっと小洒落ている雰囲気はある。

 で、食べてみたが、まあ美味い。

「しかしさあ、紹介がないと買えないクッキーって、人をバカにしてるんじゃないのか」

「まあ、お兄ちゃんにはわからないわよね」

 妹の発言にネガティブな響きはない。ただ単に、兄の性格を誰よりもよく知っているから、事実を正確に言っているだけのことなのだ。このあたりは人間関係において、非常に大切なところで、信頼しているからこそ言える言葉というのがある。信頼関係がないのに、ついつい本当のことを言ってしまう癖のあるわたしに比べると、妹はじつに時宜をわきまえた立派な女性だと思う。たぶん兄の教育が良かったのだ。

「で、いくらしたんだ?」

 妹はしばし黙った。悪い予感がした。聞いてはいけない質問だったのか。わたしは時宜をわきまえない男なのだった。たぶん両親の教育が悪かったのだ。

6,800円」

 と妹はかなり恥ずかしそうに小声で答えた。もちろんわたしは、

「えー、オマエ、正気かよ、クッキー1缶に6,800円ってか!」

 と言った。もうこの際、時宜なんてどうでもいいと思ったわけではなく、正直なところ、ほんとうに驚いたのだ。一方で、わたしはほんとうのことを告白した妹を偉いと思った。おそらく兄の教育が良かったのだ。

 6,800円と知って、もうひとつ摘んで食べてみたが、なんとなくさっきより美味しい気がした。

「まあ、たしかに美味いわな」

「でしょ!」

 妹と喜びを共感できたことが嬉しかった。そして何事につけ、子供たちの意見を尊重する偉大な母は妹に、

「じゃあ、今度お茶の先生に持っていくから、買って来てよ」

 と言った。もしかしたらわたしはお金持ちの母とお金持ちの妹に挟まれた不遇な男なのかもしれないと思った。じっさい6,800円で買えるバンブーロッドはないから、不遇というよりは、たんなる浪費家なのかもしれなかったが。おそらく母の教育が悪かったのだ。そんなことをつらつらと思っていたわたしだったが、妹が母に返した言葉を聞いて、さらに驚いた。

「それが1年待ちなの。今注文して、買えるのが来年の今頃なのよ」

 わたしは「今時のバンブーロッドの方が早く出来るぞ」と妹にアドバイスしたかったが、問題はバンブーロッドが美味しくないことだった。妹は猛烈なスイーツ狂なのだ。

「で、もちろん来年の分も注文してあるんだろう?」

 という、聴きようによってはイヤミに聞こえる、わたしの時宜を得た的確な質問に、妹は素直にコクリと頷いた。もちろんわたしの言葉にはネガティブな意味合いなどなく、わたしのことを理解している妹が悪い意味には取るはずもなかった。

妹がわたしの釣りキチレベルのスイーツキチであることは知っていたが、ここまで狂っているとは思わなかった。

 わたしはまたひとつクッキーを摘んで、口に入れた。6,800円で1年待ちだ。さっきよりもさらに美味しくなったような気がした。

 実家を後にして、車で妹を駅まで送った。笑顔で手を振って背を向けた妹を見ながら、わたしはようやく妹のスイーツキチの本質が理解できたような気がしていた。

 妹は美味しいクッキーを食べるためにお金を出しているのではないのだ。彼女はそこに至る過程すべての時間を愉しんでいるのだった。1年待っている間のワクワク感、食べる直前のドキドキ感、そしてとうとう口にしたときの恍惚感。それらすべてを包括した愉しみ。おそらく味そのものは最も重要でありながらも、愉しみの一部でしかないだろう。釣れなくても釣りが愉しいように。 

知れば知るほど、ディープになればなるほど、同じ感覚を持つ友人がいればいるほど愉しくなる、というのはあらゆる趣味に共通した感覚だ。

6,800円のクッキーを1年待って買うことに、あるいは仲間から聞いた、とても美味しいチョコレートの店に並んでいるそのこと自体、その瞬間、その時間、を妹は愉しんでいるのだ。

わたしにとってのフライフィッシングの意味を理解してくれる人が、わたしという人間そのものを理解することが出来るように、妹のスイーツのことが理解出来たわたしは、妹に対する理解を深めることが出来たような気がした。それはイコール、妹をさらに好きになったと言い換えても良いように思えた。

 妹の今年の誕生日には、たまには兄らしく、とっておきのスイーツをプレゼントしてサプライズさせてやろうか(いつ最後にプレゼントしたか、まるで記憶にない。まちがいなく30年以上前だ)。で、どこでなにを買ったら良いか知っているあなた(不特定多数、でもきっと女性)、内緒で教えてください! でも1年待つヤツはなしです。来年の誕生日になっちゃうから!


by bbbesdur | 2019-09-26 23:50 | around tokyo

#720 歌心、もしくは性を感じる音楽_a0113732_17594464.jpg


 かなり長い間、わたしはユーミンは歌が下手だと思っていた。桑田佳祐も上手くなんてない、と思っていた。考えを改めたのは、今から20年近く前に、古謝美佐子のアルバム『天架ける橋』を買って、収録されている『童神』を聞いてからだ。ユーミンのノンビブラートがほとんど革命的だったことに『ひこうき雲』以来30年近く経ってようやく気づいた(遅すぎる)。それぞれの歌にはそれぞれの歌い方があって、その楽曲が要請している歌い方があるのだった。

 たとえばユーミンの曲で言えば、今井美樹がカバーしたアルバム『Dialogue』がある。彼女の歌はとても素直に耳に入ってくる。1曲聞く分には悪くないと思う。けれどもわたしの耳には『卒業写真』と『ひこうき雲』と『中央フリーウェイ』が同じ曲に聴こえる。たぶん彼女自身がそのちがいを見つけ出せないまま、歌っているからだと思う。彼女は青春時代に聴いたユーミンの曲が大好きで、その気持ちに素直になってカバーしたアルバムを作りたかったらしいのだが、じつは彼女が好きだったのは曲そのものではなく、ユーミンが歌っているそれらの曲だったのだ。だから上手い人が歌うカラオケとあまり変わらず、そうならないようにいろいろと工夫しているにもかかわらず、結果的にオリジナルを真似ただけという結果になる。

 よく「歌心がある歌手だ」と表現されるが、わたしはそれはちがうと思っている。歌心は楽曲側にあって、その歌心をうまく見つけて、自分の個性で表現するのが歌手なのだ。そういう意味でシンガーソングライターは大きな強みを持っているのだと思う。

 たとえばここに夏川りみと古謝美佐子のデュエットがある。ココ

 二人ともうまいけれども、やっぱり古謝美佐子の方が圧倒的に上手い。この曲は民謡でないにしても、古謝美佐子が自分で書いた歌詞で、沖縄音階の音楽である以上、ネーネーズの頃からクロスオーバー的な沖縄民謡歌手でありつづけた古謝美佐子に一日の長があって当然だと思う。洋楽の発声と歌い方をする夏川りみはもちろん上手に歌っているけれども、楽曲が要請しているのは沖縄の音楽なのだ。

 夏の甲子園と4年に1度のオリンピックとワールドカップ以外、一切テレビを観ないをわたしが『涙そうそう』を歌う夏川りみの姿を見たいがために(1度も見たことがなかったから)、その年末の紅白を見て泪が止まらなかった。ほんとうに歌が上手い人だなあと思った。だからもちろん彼女のCDを買った。でも『涙そうそう』以外はわたしの心の奥には届かなかった。歌はほんとうにむずかしい。


 と、いうようなことを思ったのは、じつは昨日がリヒャルト・シュトラウスの誕生日で、フライを巻きながら『四つの最後の歌』を聴いたからだ(フライといえば、ユーミンのお兄さんって、たしかふらい人だったはず)。せっかくだから新しいのを聴こうと思ってノルウェーのソプラノ、リセ・ダビデセンの新譜を聴いた。わたしが聴いたこの曲の録音(かなり聴いている)の中で、まちがいなく一番音程が良い歌い手だ。でも、まるで心に響いてくるものがない。言葉に力がない、というよりも、そもそも歌詞がよく聞こえない。もともとドイツ語なんて、わたしにはまるでわからないとしても、歌曲である以上、歌詞は重要な音楽要素なんだなあ、と感じ入って、耳直しにシュワルツコップの若い頃の方のアッカーマンとの録音を聴いたら、やっぱりしっかり歌ってた。2019年の最新録音より、1953年の録音の方が言葉がはっきり聴こえて、わたしの心を捕える。で、ついでに名盤の誉れ高いセルとの録音と比較した(かなり久しぶりに聴いた)。セル盤はシュワルツコップ50歳のときのもので、38歳のときのアッカーマン盤より格段に表現力が増している。12年間のシュワルツコップの成長は目覚しいと思った。音程の破綻を恐れずに、表現を優先しているから、低音域ではときどき地声にちかくなったりして危なっかしく聴こえるが、そこも計算づくなのだろう。女も50歳になると、すれっからしだから。

 シュワルツコップが上手いのは当たり前だとしても、この曲に関しては結局のところ歌詞がドイツ語だということが、世紀をまたいで他の歌手の追従を許さないドイツ人の彼女の最大の武器になったんだと思う。

 あとほとんど忘れられがちだが、じつはセルとオケもいい。リヒャルト・シュトラウスの管弦楽だから、振る側としてはどうしても色をつけたくなる。たとえば第3曲『眠りにつくとき』はセル、シュワルツコップ盤が527秒であるのに対して、テンシュテットとポップの録音は621秒で、1分近く遅い。セルが淡々とインテンポで曲を進めていくからこそ、シュワルツコップの表現が際立つのだと思う。まあセルはシュトラウスの弟子だったから、やるべきことが何なのかをわかっていたのかもしれない。ポップのはショルティ、シカゴのが映像で残っていて、これはポップの実力がわかるとっても良い演奏だ。ほんとうにポップって音程が良かったし、愛らしかった。セルが「淡々と」なら、ショルティのは「そっけない」から、けっこう笑える。ココ

 しかしそれにしても、と思う。リヒャルト・シュトラウスはスゴすぎる。84歳で死ぬ前年に、こんな曲書けるかね。たしかにこの曲から死をイメージしないことは難しいけれども、死の暗さよりは、逆に生の喜びと、そこを立ち去っていくことの切なさがロマンティックに歌われている。自分自身へのレクイエムとなるだろう曲にソプラノ独唱を採用するところに、男の女性に対するロマン、もしくは母への回帰を思わないではいられない。ひたすら真面目なマーラーには、たぶん性を音楽化するなんていう曲芸はできなかったから「やがて自分の時代が来る」なんて言って自分を慰めていたんだろうけど、じっさいクラシック音楽で性を感じる作曲家なんてシュトラウスの他に、わたしは知らない。


by bbbesdur | 2019-09-09 18:05

#719 パタゴニアの『ARTIFISHAL 』試写会の感想_a0113732_11013109.jpg

 ものすごく乱暴に一言で言うと「鮭(鱒)の放流を止めよう!」というメッセージの映画で、放流魚が天然魚に与えるネガティブ・インパクトで魚が小さく、少なくなるという事実が語られている。
 日本と米国はあまりに河川、海洋の文化、歴史、環境がちがいすぎて、この映画のメッセージをそのまま受け入れることはできないとは思う。
 映画を観てなによりも痛感したのは、鮭鱒を対象としたゲーム・フィッシングがもたらす日米における経済規模のちがいだ。米国ではゲームフィッシュビジネスが地域経済と強く結びついている。魚が少ないと釣り人がやってこないから、大量に放流するというのが、これまでの米国各州の定番のやり方だった(モンタナ州以外)。しかし今その方法を変えないと、結果的に魚は野生を失い、かつ減少してしまう。だから止めようという、かなりわかりやすいコンセプトである。このわかりやすいコンセプトに対して、地元の政治経済はもちろん例によって不明瞭な利害関係でがんじがらめになっているから、その壁を突破するのは簡単なことではないと予想できる。それでもそこに一石を投じるパタゴニアをわたしは個人的には支持する。つまり彼らの製品を買うと言うことだ。
 日本の大半の企業は自分たちの作ったモノ、あるいは提供するサービスを通して社会に貢献するというのが基本姿勢だ。お金と労力をかけて社会になんらかの問題提起をし、それを社会的、もしくは政治的な運動にしようする意思はない。商売への影響が怖くて、そんな余計なことはできないのだ。お上に逆らうことをタブーとしてきた日本の長々しい歴史と、王侯貴族が存在しない平等ベースで国を短期間で作ってきた(あるいは今も作っている)米国との、どうしようもない文化的なちがい、スピード感のちがいが、企業姿勢の根底にある。
 今回のパタゴニアの問題提起はわかりやすいから、消費者にとっては賛成反対の判断がしやすい。反対ならば、パタゴニアの製品を買わなければ良いのだから。あるいはレベルの低い企業は我田引水的な問題提起、もしくは協力要請をすることもあるだろう。コスト、手間、時間を削減したいホテルが連泊のゲストに、地球環境保全のために部屋の掃除とベッドメイキングをしなくても良いか? と尋ねるように。
 でも、パタゴニアがほんとうに期待しているのは、釣り人の運動への参加だろう。やっぱり陣頭指揮を執っているイヴォン・シュイナードは米国人なのだ。パタゴニアの総売上に占めるフライフィッシング商品の割合は1%前後だそうだ。そんな割の合わないビジネスに投資をつづける釣り人イヴォンを同じ釣り人として応援したいし、割の合わないビジネスに関係した問題について、投資を惜しまない姿勢には敬服するほかにない。マトモな国を作ることは国民の責任だと心の底から信じて疑っていないからこそ、こういう映画ができる。

 日本には日本の難しさがある。だから、そのあたりの現状を映画の後で佐藤成史さんの進行のもとに、パタゴニア・アンバサダーのディラン・トミネ、水産試験場の人、両毛漁協の人、紀伊半島を流れる200河川でDNAの調査をしている人、然別湖で1000人の釣り人に調査を行った人、高原川漁協の人などの発言を交えたトークの時間があった。
 漁協というのは「魚類の増殖が義務付けられている」という縛りの範囲内でしか活動できない。映画の後のパネルトークに参加されていた高原川漁協の人たちが「釣り人が放流を求めているからやっている」と言う現場感が印象的だった。もちろん釣り人から漁協に対しての別な意見もあるだろう。しかしいまだにキャッチ・アンド・イートが主流の日本の現場ではそれが現実なんだと思う。天然でも、養殖でもいいから、家に持って帰る魚が必要なのだ。然別湖で1000人の釣り人に調査を行った人の発言もあった。釣り人が数や大きさよりも、魚の野生さを重視する意識改革から始める必要がある、というような趣旨だった。理屈も気持ちもわかる。でも、いつだって、数、大きさ、野生さ、そのすべてを、もっともっと、と欲しているのが釣り人という存在なのだ。
 ゲーム・フィッシングのあり方があまりにちがいすぎる米国発の問題提起を「これは日本ではできないよー」と言ってしまうことは簡単だ。けれども「じゃあどうするの?」という問いに対して、明確な手段を示すことができる人、リーダーシップを取れる人は残念ながら日本にはいない。日本の釣り場の現状が理想的だと思ってる釣り人なんて、ひとりもいないのに、わたしたちは何もできない、あるいはしないでいる。
 たぶん一番ズルい方法は日本の釣りをあきらめて、放流をほぼ一切していないモンタナ州やイエローストーンに逃げ、天然100%の鱒を釣ることだ。やっぱ魚は天然に限るよね、と。パタゴニアの製品を買い、経済的に米国ローカルに貢献しながら、日本ではあきらめのため息をついている、それが今のわたしの偽らざる非国民的姿であるということが、映画を観てよくわかった。さあ、どうする?
**********************************************************************************************************************************
『ARTIFISHAL』は明日9/8パタゴニア福岡を皮切りに、9/12まで仙台で上映される。



by bbbesdur | 2019-09-07 11:09 | flyfishing