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#224 失恋の夜に

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 その日、わたしは彼女に別れを告げられた。理由なんて聞きたくはないよ、といったら、彼女はほっとした表情を見せた。好きではなくなった理由を、いままで好きだったはずの相手にうまく伝える方法なんてあるはずがない。
 だからわたしは前菜の前に出てきたシャンペンを一息に飲んで席を立った。出会ったときの感激や、初めて抱き合ったときの喜び、それにつづく幸福な三年間を回想して、それを最後の晩餐とするような趣味はない。別れすら思い出のひとつとして美しく仕立て上げようとする彼女へのささやかな復讐だ。理屈や説明で片がつくなら、だれが女と裸で抱き合うものか。
「思い出なんて、くそくらえだ!」
 そう強がってはみたものの、わたしはじつに弱い男なのだった。彼女のかんがえた物語のエンディングをぶち壊すように、ひとり安酒場をはしごするのがわたしにできることのすべてで、いつものバーに辿り着いたときには、頭のなかに霞がかかったような状態だった。その霞のなかに明滅する彼女の顔を消すためには、もちろんさらに飲みつづけるほかになかった。
 顔なじみのバーテンダーは、わたしがスツールに腰掛けるなり、
「薄めにしましょうか?」
 と訊いてきた。余計なお世話だ。バーテンダーは静かでなければならない、とわたしはそんな気持ちを込めて、片手を左右に振り、
「ロックで」
 といったが、その拍子に隣りに坐っていた男のグラスを倒してしまった。
「すみません」
 こんなときに謝ることができるのが、おそらくわたしの弱みで、彼女はそんなわたしの生真面目さに疲れたのかもしれない。
 男は謝ったわたしをぎょっとするほどちかくから見つめて、
「君は乗鞍スカイハイクラブを知っているかい?」
 と、低くとても静かな声で語りかけてきたのだ。
「なんだって?」
 ひょっとすると新手の絡み方かもしれない、とおもいながらわたしは酔眼を上げて男を見た。
「スカイダイビングかなにかの集まりかな?」
「いいからただ、いいえ、と答えてください」
 男は静かにそういった。
 理由を聞くのも面倒だったし、男の口調にはひどく真剣ななにかがあった。
「わかった。いいえ、だ」
「岐阜県高山市から2時間ほどバスに乗って、乗鞍高原のターミナルを降りると、1時間半の登りで剣ヶ峰の頂上に立つことができます。標高3,028メートルの堂々たる峻峰です」
 男はつけっぱなしにしていたラジオから、深夜、ふいに聴こえてくる朗読のように、ひそやかに語り始めた。
「剣が峰はかつて山岳信仰の修行僧たちが高山の街から10日以上かけて登頂したという日本アルプスの聖地のひとつで、その名残のように頂上には乗鞍本宮があります」
 店内からいっさいの話し声が消えていた。男は低くちいさな声で語り、息継ぎの声が隅々にとどいた。
「日本で19番めに高い3,000メートル級の山のことで、真夏でも頂上には冷たい風が吹いているのですが、そこに年に1回、集まってくる人々がいるのです。乗鞍スカイハイクラブのメンバーです。クラブにはひとつだけ決まりがあって、それは、おたがいに連絡を取らない、というものです。だれがいい出したのか、メンバーのだれもおたがいを知りません。ではどうやって特定の日時に集合することができるのか、それも不明です。メンバーといってもその年限りのもので、翌年には全員が入れ替わります。組織についてわかっているのはメンバーが全員男だということで、かつて女人禁制だった神聖な山という伝説の形骸なのかもしれません。頂上から北には西穂高から槍ヶ岳、五竜、鹿島槍、白馬を経て、さらに遥か日本海側へとつづく長大な稜線が望めます。頂上には軽く助走するスペースがあります」
 男はおおきく息を吸った。
「順番は籤で決めます。風を待ち、勢い良く助走をつけ、ぱっ、と腕を一振りすると、ちいさな紙飛行機が緑の谷間に吸い込まれ、豆粒のようになって消えてゆく。投げた男は空中の一点を祈るようにじっと見つめる。メンバーたちは紙飛行機の行方を見守ったまま一言も口を開かない。飛翔時間を計る者もいない。これは競技ではないのです。投げた男が彼方を見つめて両手をあわせ、なにか納得した表情をして振り返ると、メンバーたちは黙ったままに微笑を送るのです」
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 気がつくとバーは明るくなっていて、バーテンがこつこつとわたしの肩を叩いていた。谷間に消えてゆく彼女の顔はもうすでに懐かしかった。わたしは彼女の思い出をしっかりと胸に抱きかかえるように、ひっそりと深夜の階段を昇った。
 with E-420 35mm/3.5 Macro 2008/6/1撮影 自宅、 DMC-LX2 2006/9/4撮影 剣ヶ峰
by bbbesdur | 2009-11-03 14:53 | 短編小説