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#202 続アニタ・レイの呼び声 第6回

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「立派なイワナだ」
 Yさんは満足そうにそういってぼくを見上げた。
「立派です」
 ぼくがそう答えると、Yさんはなんども頷き、口に刺さったフライを外してイワナを水にもどした。イワナは一目散に深場に泳ぎ去った。
 立ち上がったYさんは笑顔で、ぼくに先を釣るように促した。ぼくはちいさく頷いて流れのなかに立った。太陽は正面にあった。逆光のなかで流れは砕け散った水晶のように輝き、投げ入れたフライがどこを流れているかわからなかった。
「おっ!」
 と背後でYさんの声がして、どうやらぼくはフライに食いついた魚を見逃したらしかった。苦笑いを返して、ふたたびフライを投げ入れたが、やはりフライは見えなかった。するとYさんが、また、
「あっ! デカイ!」
 といった。ぼくにはまったくフライが見えていなかった。山岳の渓流を釣るにしては、やや繊細なフライをつけすぎているのはわかったが、魚が反応しているフライを変えるのはためらわれた。流れとの角度を変えて、数度キャストしてみたが、川は流れ下る光そのものに見えた。釣れないのは困ったものだが、ぼくは美しい光景に見とれてしまった。
「フライを変えます」
 そういって、ぼくはYさんに先を譲った。
 ぼくがフライボックスからフライをつまみ上げる間もなく、脇に立ったYさんはあっさりと次の一匹を釣りあげた。ぼくはこの際ついでにこの溪の規模にはやや長すぎるとかんじていたティペット(フライに直結している細い釣り糸)のながさを変えようとおもい、Yさんに先に行くように促した。するとぼくがフライを結び終わらないうちに、また水面に飛沫があがって魚が寄ってきた。
「ここは楽園だ」
 Yさんはおおきな声を出すと、夢が醒めてしまうかのように、ひっそりとそう呟いた。フライを変え終わったぼくは、これからが本番だとばかりにやや興奮して流れに立った。キャストしたその第一投にきた。魚は透明すぎる流れの底から、潜水艦が浮上するようにゆっくりと浮上してきて、水面にぽっかりと口を開け、フライを吸い込んだ。それなのに、合わせを入れるとすっぽ抜けてしまった。
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「しっかり食ってたように見えたがなあ」
 Yさんはそういって首をひねった。
「アゴなしかもしれない」
 ぼくがそういうと、Yさんは苦笑いした。以前いっしょに行った山形の溪で、Yさんは口先が尖っていない魚に翻弄された経験があったのだ。その魚は流したフライに何度も出てきて、合わせるたびにすっぽ抜けた。背後で見ていたぼくは、合わせないで放っておいてみたらどうですか? と声を掛けた。やっとのことで釣れてきたイワナはシイラのような平べったい頭蓋をしていた。なんどもフライに出てきたのは、いつも餌が採りにくくて、苦労しているからではないか、とぼくは推論し、生き難いだろう彼の日常生活に同情した。
 ぼくはそのときのことをおもいだして、きっとまた出てくるだろうと同じポイントにフライを流した。おなじイワナが悠々と白い筋の入ったヒレを揺らしながら、浮いてきた。
「合わせない、合わせない」
 ぼくはおまじないのようにそう呟き、イワナがフライを完全に吸い込んでしまう瞬間を見逃さないようにした。
「あらっ」
 しかしイワナは匂いをかぐようにフライに鼻先を近づけたとおもったら、反転して底に潜った。見破られたのだ。アゴなしなんかではない、見やすくするために付け替えたフライが大きすぎるからだ。そうおもった。
 次のポイントでもおなじことが起こった。フライに食い付いているように見えるが、じつは直前で反転しているのだ。ぼくはふたたびYさんに先を譲り、フライを変える作業を始めたのだが、瞬く間にYさんは、こんどは尺はあるかとおもえる大イワナを尾釣り上げ、手元に寄せると感嘆して、いやはや、とかなんとか呟いた。
 その魚はイワナにしては体高があり、朱色の斑紋がひときわ鮮やかだった。
「いやはや、凄いことになってきたね」
 そのときYさんがいった言葉は、それから先のぼくの一日を指すことになったのだった。
 フライをなんども付け替えながら、ぼくは第2次世界大戦におけるミッドウェイ海戦をおもっていた。情報が錯綜し、空母に艦載した雷撃機の魚雷と爆弾を付け替えているうちに、米海軍航空隊の急襲を受け、以後立ち直れない大打撃を被ってしまった、あの歴史的な敗北だ。
 フライフィッシングにおいて「釣れる」「釣れない」を分ける最大の要因はフライの選択である。つまりフライの選択というのは、それそのものが技術の一部なのである。もちろんぼくはYさんとのんびりとイワナ釣りの休日を愉しみにやってきているのであって、フライフィッシングの勝負をしにきているのではない。すくなくともYさんとぼくの間では、おたがいの技術について語られることはない。もちろんフライの出来がわるいだの、竿がわるいだの、といった軽口は交わされたりはするものの、それは、けっして腕前を競い合ってのことではない。できればおなじくらい魚が釣れて、おなじくらい幸福な足取りで山を降りたい。だから目の前でひとりが釣れつづけ、ひとりが釣れないとなると、ふたりの間にお互いを気遣う奇妙な空気が流れ始める。
 with E-420 ED14-42mm F3.4-5.6 2009/5/15撮影 山梨
by bbbesdur | 2009-09-19 18:42 | flyfishing