2009年 08月 24日
#188 ジュースを売る男
16年ぶりに行くその島の白砂は、きっとあのときと変わっていない。彼は旅客機の窓から、青白く輝く海を見ながらそう確信した。
あのときも、天気予報は雨だった。島に着いたとき、彼女は幸福そうな顔をして、
「晴れてるじゃないの」
といった。彼女の笑顔はいつでも彼を幸福にした。
「君が雲を追いやったんだ」
彼にはほんとうに彼女にそんな不思議な力があるようにおもえたのだ。
レンタカーで行く先々で奇跡が起きた。食事をしているときには、きっと雨が降ったが、会計を済ませるころには雨があがった。
ちいさな島につづいているとてもながい橋を渡りきったところに、軽トラックを改造したジューススタンドがあった。そこで彼女はマンゴージュースを注文した。スタンドでジュースを絞っていたのは、真っ黒に日焼けした若い男だった。男は、
「申し訳ありませんが、マンゴーの旬は先週終わってしまったんです」
といった。彼女は首を傾げ、
「つまりマンゴージュースはないということ?」
と訊いた。
「いえ、あります。ありますが、おいしいマンゴージュースがないんです」
彼女は太陽より眩しい笑顔を男に向けていった。
「つまり、おいしいジュースしか売りたくないというわけね」
「それがジュース屋の使命なんじゃないでしょうか」
彼女は男のいい方が気に入ったようだった。
「ねえ、聞かせて。じゃあ、あなたはなぜここで、売らないジュースを売っているの?」
彼女は眩く光り輝く海原にながい両手を広げてそういった。
「ジュース屋だからです」
彼女はひどく深刻な眼差しで男を見つめ、
「あなた、この島の人?」
と訊いた。
「はい、そうです」
彼女を見つめた男の目は、美しすぎるエメラルド色をしていた。
彼女はそれからなにもいわずにジュース屋に背を向け、車に乗り込んだ。
目指す岬の灯台の方角にはどす黒い雨雲があって、車の屋根は痛いほどの音をたてていたというのに、岬への一本道に入った途端に、雨はあがって、虹が出た。灯台のてっぺんから見下ろした海原を眺めて、彼女は、
「ねえ、やっぱり地球は丸いのね」
といった。彼には遥か彼方の水平線は一直線にしか見えなかった。まるで地球が四角い板の上に作られているように見えた。
島から東京にもどると彼女は彼のもとを去った。きっと地球が丸く見えなかったからだと彼はおもった。彼は板状の地球の一番端っこにある巨大な瀑布から奈落に落ちたようにかんじた。彼女があの島に渡ってジュースを売って暮らしていると知り、しばらくの間、彼は宇宙の底に広がる暗黒のなかでもがいた。
数年後に現れたもうひとりの女性が彼を幸福にした。けれども彼女は奇跡は起こさなかった。初めて行った軽井沢では予報通りの氷雨になったし、満開のはずの弘前城の桜は散った後だった。新婚旅行で行ったハワイ島ではいちども星空を見ることができず、ホノルルを発つその日だけ悲しいほど見事に晴れた。
それでも彼は自分が幸福だとおもっていた。ふたりの子供ができて、ふたりとも成人した。
そして、いま彼はひとりになって、あの島へ向かっていて、天気予報は雨だ。彼は奇跡を信じる気分になって、尋常ではない色に染まった海を飛行機の窓から眺めている。
with D700 DISTAGON T* 2.8/25mm ZF 2009/8/22撮影 沖縄