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#174 蝉 最終回

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「だって、嫁ぐとか嫁というのは、女偏に家と書くじゃないか」
 答えに窮したぼくは苦し紛れにそういった。父は目を宙に浮かせた。
「女偏に車という漢字はないのか?」
 ぼくはすこし思案して、
「ない」
 と答えた。そしてふいに父はいった。
「彼女だよ」
 父が目をやった店の入口からひとりの女性が近づいていた。父が彼女を紹介し、ぼくは自己紹介をした。陽子さんは腰を下ろすとき、隣に坐っている父の肩に手を添えた。父は手を上げてウエイトレスを呼んだ。
 陽子さんはとてもゆっくりと話した。父と陽子さんがお互いを信頼し合っていることは一目でわかった。陽子さんはぼくと同い年だった。車上生活者同士のふたりの関係は色恋沙汰とはすこしちがった次元にあると納得しかけたぼくに、父はいった。
「どうやらおまえに妹ができるらしい」
 これまでぼくは妹が欲しかったとおもったことはなかった。
「ごめんなさいね」
 陽子さんはまださほど目立たないお腹に手をやりながら恥ずかしそうにそういって、ぼくを見た。とてもおおきな瞳を持った人だった。ありていにいえば、かなりの美人だ。
「おいおい、謝ることなんてないだろう」
 父は陽子さんにそういった。
「だって・・・・・・」
 陽子さんは、ふたたび恥ずかしそうな顔をした。ぼくは車のなかのふたりをおもってドギマギした。
 ウエイトレスがやってきて、陽子さんは野菜カレーを注文した。ぼくはそのときになってようやく自分たちが注文したジャワカレーがきていないことに気づいて、ウエイトレスにそう伝えた。
 ウエイトレスはうなずき、確認してきます、といいながら、ふと窓を見ていった。
「あら、蝉」
 蝉は枠のない部分までわずか3センチほどまで近づいていながら、仰向けにひっくり返っていた。6本の足が弱々しく空を切っていた。いかにも元気なく、死期が迫っていることは明らかだった。
「ねえ、注文を確認してくれるかな」
 ぼくはそういったが、父と陽子さんとウエイトレスの3人は蝉を見つめたままでいた。そして同時に、
「あっ」
 とちいさく叫んだ。
 蝉を見ると、窓枠の隙間に挟まれ、片方の羽がもげてしまったのだ。
「かわいそう」
 陽子さんがそういい、父は、
「水をやろう」
 といった。
 そのときウエイトレスはなぜか窓を開けた。その途端、生暖かい空気が店内に流れ込んできて、周囲の客がこちらを向いた。父はウエイトレスのエプロンからストローを引き抜き、自分のコップから水を吸い上げて、蝉の頭部に水を落とした。
 蝉はうごかなくなった。ウエイトレスは窓を閉めて奥へもどって行った。ぼくは注文したジャワカレーが気になったが、蝉を見つめて泪をながしている父と陽子さんが気になって、ウエイトレスに声をかけることができなかった。
 了
 with FinePix F30 2008/7/17撮影 那覇
by bbbesdur | 2009-07-27 22:47 | 短編小説