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#173 蝉 第3回

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 つまり父はすでに5年間も車で生活しているのだろうか。ぼくはいまの自分の静かな生活を想った。
「ねえ、父さん」
「慣れてしまえば、なんてことはないんだ」
「しかし、風呂とか洗濯はどうしてるんだい?」
 ぼくはいまいちど父の服装や髪の毛、そして肌の艶などを確認したが、以前と変わりはなかった。10年ぶりに会って変わっていないということは、見方を変えればつまり10年分若々しいというわけだ。
「風呂は銭湯に毎日入るし、洗濯物が溜まったらコインランドリーに行く。眠るのが部屋の中か車の中かのちがいだけだ」
「そのちがいはおおきいとおもうな」
「それはおまえが車で暮らしたことがないからだ」
 父は断固とした口調でそういった。
「まあそんなことはどうでもいい。じつは報告をしておかなくてはならないことがあって連絡したんだ。突然呼び出してしまいすまない」
 父はそういって腕時計を見た。
「なんだい」
「結婚することにした」
 相手はおなじく車上生活者で、新宿の公園で歯磨きをしていたら、ちょっとばかり目を引く女が化粧バックを片手に女子トイレから出てきて、まさかとおもったが、翌日きてみたら、やはりまたいたという。
「東京でどれだけの人間が車上生活をしているか想像できるか?」
 父はそういった。
「さあ見当もつかない」
「どうだ、お父さんを見て、車上生活者とわかるか?」
「まさか」
「だろう。着るものはとても大切なんだ。髭は毎朝かならず剃って、毎晩ぜったいに風呂に入る。生活を家があったときといっさい変えない。そうすると人はまさかこの人に家がない、なんておもわないものだ。だいたい普通、人と会って、この人には家があるだろうか、なんてかんがえないものだろう」
「まあ、それはそうだ」
「こういう生活をしているとそれまで見えていなかったことが見えてくる。人の優しさに敏感になるし、愚かさに寛容になる。彼女もおなじことを感じていて、まあおんなじような生活をしていればおのずと共感することがおおくて当然かもしれないがね。ならばいっそ1台で暮らそうということになった。いつからかお互いがお互いを必要としていることに気づいたんだ。その方が経済的だろう。ガソリン代の高騰は我々には文字どおり死活問題なんだよ」
 ぼくはふたりが狭い車内で、身を寄せあっている姿をおもった。
「夜明け前に会社まで彼女に送ってもらい、トラックに乗り換えて湾岸を走っているうちに夜が明ける。陽が昇ると、窓から流れ込んでくる空気の匂いが変わる。そのとき、自分が幸福だと実感するんだ。とてもとても幸福だとね」
「で、結婚したらどうするの? まさかいまのまま車で暮らすってわけにはいかないだろうに」
 父はぼくを不思議そうに見つめて、
「なぜだい?」
 といった。
 つづく
 with GRDII 2009/3/8撮影 新宿
by bbbesdur | 2009-07-27 00:06 | 短編小説