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#172 蝉 第2回

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「じつはちょっと話したいことがあってな」
 そういって蝉から目を離してわたしを見た。それはそうだろう、その用件なしにこんな暑い最中に息子を呼び出したりはしない。
「わかってるよ。で、いくらいるんだい?」
 わたしはすこし前にアルタの隣りにある三井住友銀行で30万円を引き出して封筒に入れた。いちおうは必要な金額を訊くけれども、いくらでもおなじことだ。10万円といわれても、50万円といわれても、ただ三30万円の入ったその封筒を差し出すだけのことだ。いくらいるのか、と訊くのは、父に言い訳をいわせるためで、一種の儀式みたいなものだった。
 以前いちどだけ、言い訳など聞いたところで時間の無駄だとおもい、会った途端、なにもいわずに封筒を差し出したことがあった。父はとても苦しげな顔をして、わたしを見た。わたしは自分が乞食に金を恵む態度でいることに気づき、そのときばかりは反省した。わたしが必要額を訊き、父は理由を述べたのち、しかるべき金額を口にし、工面できるだけのお金はこれこれしかじかだとわたしが理由を述べて、差し出す。面倒だが仕方がない。手順そのものが危ういふたりの関係を保護するのだ。じっさいマンションのローンでわたしには余裕なんてない。ランチをセブンイレブンのおにぎりで済ませて倹約もしている。
「いや、そういうことではないんだ」
 しかし父はそういって、窓越しにすぐ近くまで寄ってきた油蝉に目をやった。
 わたしはちょっと拍子抜けしたと同時に、ほんとうのところかえって面倒な気がした。お金ではなくて、じゃあ、いったいなんなんだい、という気分だった。油蝉は父の左の肩口から窓硝子に沿ってさらに奥、わたしから見て新宿駅の方へ進み、父の背後に回って視界から消えた。
「5年前におまえに電話しただろう」
 体よく断ったときのことだ。
「5年も経ったかな?」
「ああ、きっちり5年前の昨日だ」
「すごい記憶力だね」
 日にちこそ憶えてはいないが、わたしだってはっきりと憶えている。今日のように、やっぱり太陽がぎらついている夏の入り口だった。
「あのときは借金で背中に火が回っていた」
 わかりきったことだ。その前の月も、その前の前の月も、月末に電話してきて金を無心した。碌な稼ぎもないというのに、毎日欠かさずパチンコ屋へ通い、週末には競馬場へ行き、たまに勝てば歌舞伎町のキャバクラで盛大に飲んだくれれば、そうならないほうがおかしい。けれど、なんどいって聞かせても父の生活は変わらなかった。オマエはほんとうに昔からクソマジメだからなあ、とわたしの忠告を笑い飛ばした。
 あるときから父に批判的な意見をいうのを止めようと決め、同時に会うことも止めた。父親の人生に息子が関与する必要はなかった。肉親だからといって、父親に息子の内面がわかるはずはなく、逆もおなじはずだった。父は父で生きたいように生きればそれでいいではないか、とおもった。父はなんどか連絡してきたが、わたしがあれこれと理由をつけて断りつづけると、やがて諦めた。毎月の出費が激減した。それはそうだ、おとなふたりが生活する費用が半減したのだから。わたしは浮いたお金で住宅ローンを組み、新築マンションに引っ越した。父には引っ越し先を知らせなかった。携帯電話番号を変えようかともおもったが、さすがにそれは止めておいた。
「断ってくれて感謝しているんだ」
「断った?」
「借金だよ」
 断ったわけではない。メッセージに残された指定日に、「新宿の目」の前に行かなかっただけだ。もういちど電話があれば出向いたかもしれないし、切迫している様子であれば、お金も準備したはずだ。
「じつはその翌週、アパートを追い出された。そりゃあそうだよな、家賃を1年分も滞納すれば普通はそうなる」
「だろうね」
 いい薬だったろう。
「翌日から住む場所がなくなった。正直なところ、なんども電話ボックスの中に入って、おまえに連絡しかけたが、止めておいた」
 たちまちにしてわたしは悟った。お金ではない相談がなんのことかを。父にとって家賃の要らない場所はこの世にひとつしかない。
 日曜日にマンションのリビングルームで酒を呑んでいる父を横目に見つつ図書館に向かう自分の姿が頭に浮かんできた。新築の区立図書館まで歩いて3分で、だから気に入って購入したのだ。
 わたしの人生はもはや父の人生とは同一平面上にはないはずだった。いまはあの六畳一間の世界とは切り離された別な地平に暮らしている。父にふたつの世界が地続きでつながってはいないことをうまく説明しなくてはならなかった。たとえばある女性と付き合っていて、まもなくいっしょに暮らすことにしている、といったような理由をこじつけて。
「それで毎日運転している会社のトラックで暮らすことにしたんだ。じっさいどうしたらいいかと悩んでいるうちに夜が更けて、そのまま眠ってしまったのがそもそもの始まりなんだが。つまり車上生活者というわけだ」
 ばかげている。還暦間近の男が狭い車のなかでどうやって暮らすというんだ。
「まさか、いまもそうしてるなんていわないでよ」
「まあ、そんなところだ」
 つづく
 with E-410 ED14-42mm F3.4-5.6  2007/10/27撮影 沖縄
by bbbesdur | 2009-07-25 21:51 | 短編小説