人気ブログランキング | 話題のタグを見る

#165 北海道シリーズ 第5回 <荷台>

#165 北海道シリーズ 第5回 <荷台>_a0113732_21162533.jpg

 阿寒湖へ向かう道で、老人は一羽のスズメを轢いた。天気は下り坂だった。西側に広がった地平すれすれの空だけが明るかった。正午前だというのに、あたりは日が暮れてしまったような暗さに包まれていた。
 すこし前に越えた峠で老人は鹿を見つけた。北側におおきく展望が利く峠の山側に背の高いクマザサの茂みがあり、鹿はそこから飛び出してきた。未舗装の山道のことで、老人は車の速度を落として運転していた。路に出た鹿は車に気づき、すぐに谷側に広がるトドマツの森のなかに駆け込んだ。目を凝らすと暗がりに無数の目が光っていた。蝦夷鹿の群れだった。老人は路肩に車を停め、車を降りた。鹿たちは老人の一挙一動を注意深く見つめていた。
 老人はさらに群れに近づいていった。野生の獣の匂いが立ち込めていた。迷いなく、しかし一歩一歩慎重に歩を前に進めた。森の入り口に群れているように見えていた鹿は、とてつもなく大きな群のほんの一部だった。鹿は一匹残らず老人を見つめていた。なぜ鹿が逃げないのか、老人には理解ができなかった。
 肩に吊るしたライフルがとても重くかんじられた。それでも老人は長年の習慣どおり、するりとストラップを肩から抜いて、一瞬のうちに構えに入った。
 鹿たちはそれでも一歩もうごくことなく老人を見つめつづけた。老人は一番手前で堂々と立っている牡鹿に照準を合わせた。牡鹿は、さあ、早く撃ってごらんよ、といわんばかりにおおきな黒目で逆に老人を見つめかえした。そんなふうにかんじたことはこれまでになかった。老人の胸に気味のわるい汗が流れた。
 一秒が経ち、二秒が経ち、五秒経っても鹿はうごかなかった。老人は鹿が逃げてくれるように祈った。しかし鹿は森の中に並べられた彫像のようにうごかなかった。そのとき老人は鹿は群れではなく、一匹であることに気づき、ひどく動揺した。
 老人は自分の知覚を立て直すようにライフルを構え直し、すぐさま引き金を引いた。鹿は四脚の筋肉を瞬間的に弛緩させたようにその場で崩れ落ちた。駆け寄って、首筋に手をやった。絶命しているはずだった。撃たれたことさえ気づかずに死んだはずだった。
 しかし鹿はおおきな瞳で老人を見つめ、ちいさく首を振った。老人は狼狽した。立ち上がるとライフルを構え直した。二度目の銃声は鹿のからだのなかに吸い込まれて行くように聴こえた。
 老人は、生まれたときのように、気づかないうちに生命が消えてしまえば、獣たちが悲しむこともないと信じてきた。だから腕を磨かなくてはならないのだ、それが猟師の義務なのだ、そして誇りなのだ、と。
 老人はクマザサの上を引き摺ってゆき、自製の木製スロープを使って鹿を軽トラックの荷台に乗せた。
 老人は激しく汗を掻いていた。鹿一匹を荷台に乗せるなんて、すこし前まではたやすいことだったとタオルで首筋と顔を丁寧に拭いながらおもった。水筒に入れてきた麦茶を飲むと、すこし落ち着いたが、胸の動悸は収まらなかった。鹿の胸部に開いたふたつの銃創はいかにも無様だった。体調が悪いのだ、と老人は自分にいい聞かせた。
 雲の隙間から漏れた一条の光が、峠から見下ろす山並みをサーチライトのように照らした。雲は老人の手の届く高さにあった。まるでわたしが地上を照らしているみたいだ、と老人はおもった。
 西に向かう帰路の水平線にだけ光があった。昼前であることをわかっていながら、老人はわずかにあいたその空から夕陽が顔を出すような気がしてしかたがなかった。
 いくつものなだらかな丘を越え、農場のポプラ並木が縦横に伸びている平坦な道に差し掛かったときだった。並木から散った木の葉のように、そのスズメは軽トラックの直前に舞い降りた。老人は瞬間的にハンドルを切った。巣立ちの季節にはままあることだが、いまはそんな季節ではない。鹿といい、スズメといい、今日は生物たちの様子が奇妙だ。そうおもった老人は、ふたたび胸を伝い落ちる冷たい汗に気づいた。おかしいのはほんとうに彼らなのか。
 ルームミラーを見ると、路面にちいさな塊がうごいていた。老人は車を停め、歩み寄った。
 一羽のスズメがが路面に止まった揚羽蝶のように羽をばたつかせていた。とんでもない方角を向いた両脚はいまにも千切れそうで、右翼の風切羽がちょうど中央で折れ曲がっていた。
 老人はスズメを掌に乗せた。苦しまないよう、一息に首の骨を折ってやろうとおもった。黒くざらついた皺だらけの掌の上で、スズメは老人を見上げた。そしてまるで轢いた彼が恩人であるかのように、ちいさく鳴いた。老人は胸を打たれ、最後のさえずりに耳を澄ませ、そして力をこめた。
 老人はトラックの荷台に上り、息絶えた小鳥を鹿の脇に寝かせた。そしてそっと彼らに寄り添うように自分のからだを横たえた。 
 with E-420 Leica 14-150mm f3.5−5.6 2009/7/10撮影 北海道
*北海道の動植物に関する鱒やさんのご指摘を受けて、初掲載時から内容を変更しています。
by bbbesdur | 2009-07-17 21:21 | 短編小説