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#160 ハッピー・ベーカリー

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 不思議な客がいるものだ。
——明日は妻の誕生日だから、食パンを5斤焼いてくれないか。
 初めて見る客だった。オレはもちろん、パン屋だから、注文されれば焼くだけのことで、お客がどんな理由でパンを買うかなんてかんがえたことがない。そもそもパン屋でパンを買う理由をいうヤツなんていない。ケーキじゃあるまいし、誕生日だから食パンといわれても困る。しかも5斤だ。
 ウチは石窯で焼いている。金属製のオーブンとはかかる手間暇がまるでちがう。季節によって、石窯の冷え方がちがうから失敗の確率も高い。ひとりで5斤も買われてしまうと、他のお客さんの迷惑になる。昨晩、女房にいったら、売れる数はおんなじなんだから別にいいじゃないの、といった。あいつはなんにもわかっていない。パン屋に与えられた社会的使命をまったく理解していないのだ。
 翌朝、オレがいつものように食パン10斤を石窯から出し、窓辺で焼け具合を確認していると、商店街の一本道を例の男がやってくるのが見えた。日が昇ったばかりの5時過ぎにだ。
 オレは、焼き上がったばかりの10斤をそいつに渡すつもりはなかった。毎朝7時の開店と同時に買いにくる常連客のために焼いている分なのだ。追加の5斤はこのあとに焼くつもりだった。
 そいつは窓辺で作業しているオレに向かって笑いかけた。気味が悪いったらない。朝っぱらから、夫婦のおのろけに付き合わされているみたいでね。オレはムカッときて、窓を開けていったんだ。
——10時過ぎにならないと、アンタの分は焼き上がらないがね。
 案の定、男は焼き上がったばかりの食パンを指差して、そいつを寄越せといわんばかりの表情をした。もちろんオレは断った。すると男がいったんだ。
——頼むよ、女房が目覚める前に欲しいんだ。枕元に置いてびっくりさせたいんだよ。
——それならそうと、昨日のうちにそういってくれれば良かったんだ。
 しかし男は強情だった。オレはなんだかばかばかしくなって、焼き上がっていたうちから5斤を渡した。男はほんとうにうれしそうな表情でほかほかの食パンを5斤、胸に抱くように早足で帰っていったよ。
 ほんとうにばかばかしい話だろう。でも不思議なことにその日一日、オレはとても気分が良かった。ヤツの女房が、オレの焼いたパンにたっぷりマーガリンを塗って、つぎつぎとがぶりとやるところを想像しているうちに、なんだか毎朝の早起きの疲れが落ちた気がしたんだよ。オレのパンがだれかの血肉になっているって実感できた。そうだ、オレはひょっとしたらパンで幸福を与える神様なのもしれないってね。
 with D700 28D/2.8 2009/6/20撮影 八ヶ岳
by bbbesdur | 2009-07-10 00:36 | 短編小説