2022年 01月 05日
#756 パタゴニア・フィルム『they/them』―ONE CLIMBER'S STORYを観て
フィルムに登場する主人公はトランスジェンダーのクライマーだ。飾り気のない人というのは、こういった人のことを指すのだと思う。実際のところ、フィルムの中の彼からは、飾り気どころか、「ありのままにに生きるしか方法がない」という切実さがダイレクトに伝わってくる。
私たちが実際にフィルムの中で観ることになるのは、主に彼が難しい崖を登っている姿だ。落ちては、めげずに再チャレンジし、ついには崖の上に到達する、というドラマ構造を持ってはいる。崖には、見えない未知のルートがあり、彼にとってクライミングとは、その道のルートを探ることなのだ。しかしフィルム製作者の念頭に、もしも初めから、崖を彼の人生に例えようとするアイディアがあったなら、製作を終えた時にその自分のアイディアがどれほど陳腐な、ニセのレトリックだったかと反省することになったかもしれない。山登りを人生に例えるのがバカバカしくなるほど、彼には登ることが人生そのものであることが、ひしひしと観る者の胸に迫ってくる。マロリーの「そこに(エベレストが)あるから」が、山に取り憑かれた者が発した言葉ならば、このフィルムの主人公ロー・サボウリンが発してるのは、山にしがみついている者の祈りであり、「そこにあるから登る」のではなく、「登らないと生きていけない」から登るのだ。
今、私はこの人物のことを「彼」と呼んでいるが、実のところ、それが適切な呼び方なのかどうか、自信がない。そもそも、この人称の問題が、この主人公の人生を必要以上に複雑で、難しいものにしてきたのだ。
もし私自身が自分の人生の過程で、自分の性を疑い、自分自身で判断し、その結果を社会に向かって申告する、という作業をしなければならなかったとすると、そこには間違いなく別な、それもかなり過酷な、人生が待っていたはずだ。ただでさえ面倒臭いこの社会の中で、ややこしい人生を送らなければならないというのに、トランスジェンダーの人々の多くは、人生の開始早々、いきなり自分と向き合わなければならなくなる。しかも他人はおろか、親にすら相談できない状態で、単身、薄暗い迷路の中に足を踏み入れていくのだ。どれだけ恐ろしいことなのか、想像もつかない。足が竦むほどの恐怖に打ちかつために、実際に足が竦む崖が必要だったのだ、というお気楽なレトリックを思いつく自分が情けなくなる。
オスとメス、男と女という、地球自然界の維持都合で押しつけられた生殖願望から発生した私たちは、悲しいことには、どんなに必死であがいたところで一人では生きてはいけない。人は生まれたその瞬間から人を必要としている。虫と違って、生まれたときから一人で生きることはできないのだ。シスジェンダー(自覚している性と身体構造が一致している人々)はもとより、トランスジェンダーの元女性が、男性になったところで、やっぱり誰かを好きになる。生まれながらにして他者依存生物である人は、関係性の中で生きていくしかないのだ。このフィルムの素晴らしさは、トランスジェンダーというフィルターを通すことによって、人間同士の関係こそが何よりも重要で、性別なんて取るに足らないことであるということが、理屈っぽい説明抜きに、観ている者に伝わってくることだ。母親との関係、友人との関係、恋人との関係、その関係性こそが、この主人公の生命を支えていることがわかる。すべての人にお薦めします。「性なんて、くそ食らえだ!」っていう気になる映画って、これまで観たことないでしょ?