2017年 05月 31日
#693 痔の話 第19回 水道管の気持ち

手術が始まっているというのに必要な器具が準備されていない。医療現場に限らず多くの業務現場でこういったことは日常的に起こっているのだろう。前回のfacebook記事へ昔の仕事仲間S.F君が以下のようなコメントをくれた。
「水道管が埋まっている地面を掘るのに、ユンボで掘ると破裂してしまうかもしれないがスコップがない(中略)という状況」
S.F君はだいぶ前に会社を辞めて、奥さんの実家ビジネスを継いだはずで、たしか水道系の仕事だったと思う。とてもわかりやすい比喩だ。ひび割れた水道管は自分の身体を修理してくれる工事業者の到着を待ちかねていたというのに、待った挙げ句に、スコップがないだって!
傷ついた土まみれの姿を地中に埋もれさせたまま横たわっている水道管に感情があったなら、その心中は察するに余りある。おそらくそれは人間の言葉で言うところの「絶望」だ。軽く明るい性格の水道管だったら、
「あのー、スコップなら向かいの家にあるとおもいますけど」
くらいの一言は言うかもしれないが、大半の水道管は生まれながらにして寡黙なタイプが多いと思う。ぼくは全身そのものが水道管ではなく、下水用のパイプが腐食しただけだからほんとうに幸運だった。もしもう一度生まれ変わるチャンスに恵まれたとしても、水道管と釣りが好きじゃない男だけにはなりたくない。
必要な器具がないのに、麻酔をかけられ、既にして第一刀は肉を切っている状況で、ぼくはこのクリニックを選んだ自分自身を呪っていた。気が短くて、気が強い人なら、
「メスの準備もしないで手術を始める病院があるか!」
と怒鳴っていたかもしれない。ぼくは気は短いけれども、気が強くはないから、文句を言った後の医師の報復を恐れて黙ったままでいた。麻酔が効いていないことを知りながら、いきなりユンボで地面を剥がされる想像だけで、気絶しそうになるではないか!
手術は医師の他に2人の看護師によって行われていたが、ひとりの看護師がメスを探しに手術台から離れて行く足音が聞こえた。手術室、そして診察室を見て回っているようだったが、
「ビンゴー!」
の声は聞こえてこなかった。
戦況の悪化を覚悟したぼくの目の前には、例の透明な波が静かに打ち寄せるヌーディスト・ビーチがあったけれども、気のせいか空の色が風雲急を告げるかのように薄暗くなり、遠くの波間には敵の上陸用舟艇が上げる波しぶきが見えるような気がした。