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#692 痔の話 第18回

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 その日、12本目の注射が打たれて手術が始まった。これだけ打たれたのだから、さぞかし麻酔がお尻全体に回っているだろうというぼくの希望的観測をまるで無視するように、その注射もしっかり奥まで突き刺さり、必要以上に痛かった。医師は麻酔が効くように少し間を空けてから、

「では、始めます」
 と宣言した。
「はい、お願いします」
 とぼくは答えた。やっぱり少し怖かった。こんな注射一本で痛みを感じないはずがないと思った。きっとぼくとおなじような恐怖を感じる患者も少なくないのだろう、目の前5センチに迫っている壁にはどこか知らない国の、知らない島の、透き通った水が柔らかに打ち寄せている浜辺の写真が掛かっていた。患者が痔の手術をしていることを少しでも忘れることが出来るような配慮なのだろう、じっさい少し気持ちが和らぐように思えた。10センチx5センチほどの小さな写真だったが、何しろ文字通り目と鼻の先なので、たしかに美しい浜辺に横たわっているような気にもなる。もちろんそこはヌーディスト・ビーチで、ぼくは今お尻を出したセミヌードで、隣りにはとびっきり美しい女性が裸で寝そべっているのだ。しかし彼女にお尻を向けているぼくには絶対に彼女の姿を見ることが出来ない。なんという不幸だろう。地の底からの廻廊の途中で絶対に振り向いてはならない、振り向いたら最愛の女性とともに冥界に堕ちる、というオルフェ神話に登場する洞窟が、こんな東京都心のど真ん中に空いているなんて。じっさい神話世界というのは、時代を問わず、現実世界の隣にぽっかりと空いているものなのだ。村上春樹の小説に頻繁に出てくる「井戸」のイメージのように、ぼくが今まさに書き進めているこの書き下ろし純文学超大作『痔の話』では、もちろん「K門」が主人公の抑圧された心理の重要なメタファーとなっているわけだが、作者が作中で自作品の解説をするのはタブーというもので、吉行淳之介が『砂の上の植物群』でやった時も批判されたから、止めておこうか。
 明らかにメスが肉を切っている感覚があって、ぼくは神話世界からいきなり東京に舞い戻って来た。痛くはないのに切られた感覚があるっていうのは、決して気持ちの良いものではなかった。というのはかなり控えめな表現で、じつのところ、皮一枚向こうにある激痛の予感、という感じだった。
「xxxxxxのメス」
 と医師は看護士に言った。すると看護師は少し慌てたように、医師の言葉を聞き直した。医師は、
「細い方の」
 とだけ言った。看護師はさらに慌てて、トレイの中を探しているのだろうか、金属が触れ合う音がした。医師の、
「ちょっと見せて」
 という声がして、すぐに、
「ないね」
 と断定した。




by bbbesdur | 2017-05-22 18:50 | health care