2012年 01月 03日
#523 5区という人生

4区を走った1年生の田口君が見えてきて、もうまもなく襷が受け渡されるというとき、映像は柏原君の顔をアップで捉えた。柏原君は感極まった顔つきをしていて、わたしは、これは良くない兆候だとおもった。衝撃的な1年生デビューによりたちまち「山の神」と呼ばれるようになった彼が、最後の駅伝で大学4年間を振り返るモードになり、やや感傷的になっているとおもったのだ。感傷は勝負における元凶だ。箱根駅伝というレースの圧倒的な厳しさは感傷という隙を見逃さない。ことに、20キロ以上ひたすら山を登るだけの5区はほんのすこしでもこころに隙があったら負けで、さすがの柏原君も今回は? とおもったが、そうではなかった。レース後のインタビューで、仲間が初めて1番で自分に襷をつなげてくれたがんばりに対して、胸を打たれたのだという。結果、彼は仲間を裏切ることがなかったばかりか、自分が持つ歴代1位の区間新記録を塗り替えた。じつに強靭な意志を持ったランナーであり、箱根駅伝が年の初めに行われる意義を具現化するにふさわしい男だった。彼が山を駆け上がるあの苦しそうな姿はもう二度と見られない。
5区で自分自身の記録と戦っている東洋大の柏原君の後方、おくれること4分ちょっとの2位争いは長時間に渡って壮絶極まりなく、明治大の大江君が早大の山本君を抜き、山本君が大江君を抜き、ふたたび大江君が山本君を抜き、そのときのふたりの表情から、勝負あった、とおもっていたら、信じられないことにゴール目前の大鳥居付近で山本君は三たび大江君を抜いて、早大の往路2位をキープした。ひたすら20キロを駆け上りつづけるという極限状態で、なお抜く者と抜かれる者が何度も入れ替わり、その度に感情のこもった表情を見せる。必死の形相という形容は、まさしくこういうときにこそふさわしかった。
国学院の寺田君は、昨年の復路一年生アンカーで、大手町の最後の最後でコースをまちがえてシード入りを逃しかけ、ぎりぎり10位でゴールしたうっかり者だが、まさか彼が今年5区に来るとはおもわなかった。5区受け渡し地点で寺田君の顔が見えたとき、驚き、懐かしく、気づいたらわたしは笑っていた。今年もなにかやらかしてくれるかとおもっていたが、力強く坂を駆け上って先行走者を追い抜いてゆき、2年連続のシード圏内をじゅうぶん狙える9位につけた。
東京農大の津野君は20位の最終走者として、まるで最終ランナーである自分の役割をわかっているかのようにペースを落とし、脇腹を抑え、天を仰ぎ、路面を見つめ、背中を抑え、必死で苦痛を耐え忍びつつ、沿道とテレビの視聴者を釘付けにした。放送時間終了の字幕がながれるなか、最後までひとり走りつづけたのだが、テレビプログラムの終了の仕方としては、彼がゴールして終わるより、あと2キロに迫りつつある彼の苦しげな顔をアップに終わって、かえって余韻があって良かったとおもう。
しかしなんといっても、今年、もっともわたしの胸を打ったのは、関東学連選抜の吉村君の姿だった。彼は全力を出し切りゴールテープを切ると、路上に倒れ込んだ。もちろんゴール後に倒れ込む選手はおおい。しかし苦しみ喘ぐ彼を助けた仲間はいなかった。係員数名に抱きかかえられて、コースの外に出された。
学連選抜チームとは、駅伝参加資格を得られなかった大学のなかから、個人能力が高い10人をてんでバラバラの大学から選抜し、無理矢理1チームに仕立て上げた、いわば即席混成チームだ。だからチームとしてまとまっているはずもなく、ゴールで待ち受けてくれる仲間もいないのだろう。
吉村君は孤独だった。走っている時は自分と戦いながら孤独、ゴールしたあとは仲間がいなくて孤独、という混成チームの選手たちは、大学チームとおなじコースを走りながら、合計10区間がぶつぎりになった、まるでちがう大会を走っているのだ。チーム力がなく大会に参加することができない埋もれたランナーに脚光を当てるための意義はわかるが、駅伝という競技からチームワークという重大な要素を消し去ったとき、そこに現れる光景はかなり殺伐としたものになる。初めからひとりっきりのマラソンとは話がちがうのである。そもそもそれを駅伝と呼ぶのだろうか。係員に抱きかかえられた吉村君、明日の結果になんて、まるで興味がないとおもう。
with GRD3 2011/1 箱根駅伝5区上空