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#482 富士フィルム FUJIFILM X10 散文レビュー その3

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②画がいい。
 結局、われわれアマチュア・フォトグラファーが求めているのは「プロなみの画質」なのである。雑誌やネットでプロが撮った様々な写真を見て、そしてその写真が撮られたカメラとレンズを確認して、おなじ機材を使えば、おなじような写真が撮れる、と錯覚することからすべてが始まる。いつもの繰り返しになるけどアマチュアにとってなにより重要なのはモチベーションであって、どんな錯覚だって大歓迎なのである。なによりも撮る気になることが、それもたくさん撮る気になることが、肝腎なのである。ぼくに関していえば、新しいカメラを購入したとき、それも写りがいいと信じているカメラを持っているときに、最も撮る気になる。撮る気になるために、新しいカメラを購入すると言い換えてもいいくらいだ。
 しかし、そもそも画質ってなんだ? 画質の見え方にも個人差があるし、そもそもその写真をディスプレイで見るのか、プリントするのか、どのくらいのサイズにプリントするのか、といった要素も無視できない。
 デジタルになってから、アマチュア・フォトグラファーのなかに急速に流布し、定着したのが「等倍信仰」である。ディスプレイで写真を鑑賞することが主流になってから、精細感を確認するために等倍でチェックすることが当たり前になり、等倍で見栄えがわるいと「画質がよくない」と評される傾向が強くなった。
 しかしだ、それはたとえばオランジェリーに行って、モネの「睡蓮」に顔をくっつけて見ることと似た行為で(行ったことがないからわからないけど、きっと手で触れることができる距離までちかづくことはできないだろうなあ)、木を見て森を見ず状態になりかねない。等倍チェックは精細度のチェックであって、画そのもののチェックではなかったはずだ。
 はじめてそのことにおもいあたったのは、じつはオリンパスのE-420と標準キットレンズとニコンD700とZeiss25mm/2.8でおなじ光景を撮って、ディスプレイで見たときのことだ。拡大するとE-420はまるで細部を解像していないことがわかったが、ディスプレイで写真全体を見るかぎりは、ニコンよりも「しっとりとして良い」、それはつまり「ぼくの好きな」と画なのだった。
 デジタルカメラが普及し始めてすぐのころ、アラーキーが「デジタルは濡れてないじゃないの」とエロチックな言い回しでフィルムの良さを主張していたが、じっさいフィルムは現像時に溶液に濡れ、引き伸ばし時にも溶液に濡れる。もちろん最終的には乾いて出てくる写真、たとえ砂漠を撮った写真でも、どうしても濡れたかんじがつきまとうのは、いちどは濡れて、その後乾いた印画紙の光沢によるところがおおきい。暗室の内外問わず、人生そのものが濡れ濡れのアラーキーでないぼくにあっても、写真はなんとなくしっとりしているとかんじているものなのだ。いってみればフィルム写真は乾燥椎茸のようなもので、濡れたものを乾かすからこそ出る味わいがあったのである。そして、フィルム時代からながらく写真を撮りつづけてきたぼくには、そのしっとり感が重要らしいのである。
 そして富士フィルム X10にはその微妙なニュアンスがあるのだった。だから撮影した写真を初めてディスプレイで見たとき、ぼくは珍しく興奮した。
「この画だ!」
 と叫んでしまったのだった。
 このしっとり感を別な人が見たら、ひょっとするとシャープさが足りない、とおもうかもしれない。フィルムなんて使ったことがないフォトグラファーが増えつづけているわけで、彼らは彼らの判断材料が別なところにあるだろうから。あるいはカリカリの画に慣れているフォトグラファーの眼には、逆にソフトさが新鮮に映るのかもしれないな。
 富士フィルムという会社はデジタルカメラ開発の方向性に関してはなかなか足元が定まらなかったが、目指しているアウトプットであるところの画そのものについてはいっさいブレることがない。白黒フィルムの三つ子のころから、デジタルの百まで、正真正銘、フィルムが死んでも魂は感材屋なのである。
「理想としている画」というのがなによりも先にあって、かつその画をアウトプットするためのフジノンレンズという珠玉を持ちながら、カメラのハードウエア作りが極めて不得手、というイメージがつきまとっていた富士フィルムだが、このX10でトンネルをひとつ抜けたとおもう。というのは、いささか性急すぎる結語だから、操作性の印象あたりを次回につづけます。
 with FujiFilm X10 2011/11 東京
by bbbesdur | 2011-11-03 13:28 | camera