2011年 08月 11日
#449 摩文仁の丘のうちなーんちゅ

ひと月ほど前の平日、帰宅した直後に会社の携帯電話が鳴って、沖縄のモアイ仲間のMだった。
「bbbさん、すみません」
いつも、Mは電話で謝罪から会話を始める。そしてたいがい酔っ払っている。
「いま帰ってきたばかりだから、風呂から上がって電話するよ」
謝られるものだから、ついつい自分がなにかの権利を有している気になってしまうのだ。で、風呂から上がって電話したら、このごろよく行く那覇の燻製専門居酒屋に会社のメンバー数人といて、
「bbbさん、知らなかったけど大田中将の親戚なんですって!」
という。
「ちがうってば」
大田実中将は沖縄戦の海軍司令官だった人で、沖縄の人々にウケがいい。ぼくの大伯父は長勇中将であり、牛島陸軍司令官の参謀で、結果的に島民総動員戦を強いた人物ということで評判はわるい。
出航できる艦船もなく、発進できる航空機もなく、出る幕のなかった海軍司令官が評判がいいのは、戦わなかったからである、沖縄島民に戦いを強いなかったからである(沖縄戦に関する陸軍32軍の責任と大本営の無責任に関して、ぼくはかなり明確な意見を持っているが、ここでは重すぎる話題だ)、という意見もあるが、なんといっても彼が自決する最後に残した電文による力がおおきい。大田中将は、沖縄戦での島民の健闘ぶりをたたえ、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と本土の海軍次官に打電したのだ。ウケがいいのもわかるというものだ。

大田実中将がぼくの親戚であるという誤情報は同僚Yによってもたらされたもので、ぼくはYとの20年以上の付き合いをおもって天を仰いだら、低い木目の天井だった。
「Yから聴いたんだろうけど、ぼくの大叔父は長中将で、摩文仁の丘で牛島司令官とともに自決したんだ」
といい終わらないうちに、なぜか電波が途切れて電話が切れた。ぼくはどうでも良くなって折り返し電話することもなく、Y(これは大学時代の親友で、男だ)から半年遅れの誕生日プレゼントとしてもらったブラッド・メルドーのピアノを聴いて、気を取り直すことにした。
CDを聴き終わらないうちに、こんどはYから電話がかかってきて、
「こんどbbbさんが沖縄に来たときに、みんなで摩文仁の丘に行って、黎明の塔に手を合わせようって、決まりました」
そのとき、ぼくは不覚にも泪を流した。もちろん酔っ払って電話してきているYたちに悟られることもなかったが、その泪はあまりに唐突で、不意打ちだった。
黎明の塔までは、炎天下を(夏の摩文仁の丘は風向きの関係で雲がすくない)駐車場から15分以上登りつづけなくてはならない。それに、そもそも沖縄の人々は摩文仁の丘そのものに近づこうとしない。これは死者の霊的な力を信じているせいで、沖縄戦に関する意見とはなんの関係もなく、ただただおおくの人が死んだ土地に近寄りたくないからだ。そういったあれこれを知っているだけに、酔っ払った勢いでそう決まったにせよ、6人の同僚たちの気持ちに感謝したのだ。
「ありがとう。たぶんキミたちが、黎明の塔の前に立つ最初のうちなーんちゅになる。時代が変わった、って、きっとオジさんもよろこんでくれる」
ぼくはそういって、気恥ずかしさを隠した。
そして、先月沖縄に行って、計画した当日がやってきて、やってきたのはYひとりだった。

それでもぼくは気落しなかった。ひとりでも、やってきてくれたのだ、とおもった。
「ありがとう」
とYに小声で礼をいって、駐車場から公園内に入ろうとしたら、Yが、
「あらっ?」
といって、目の前の看板を見つめた。

「行けませんね、bbbさん」
Yの穏やかな声のなかに、すこしだけほっとした響きがあった。
なぜ工事関係者が入れて、血のつながった親族が入れないのだ。理不尽さにちいさな怒りさえ湧き上がりかけたが、そもそも沖縄戦そのものが理不尽だったのだ。
ぼくは天を仰いだ。そこには沖縄の、梅雨開けの、あの年の、6月23日の、大叔父と司令官の自決ですべてが終わった沖縄戦の、あの日とおなじ大陽が、あんまり明るく、強く、輝いていた。
with GRD3 2011/7 摩文仁の丘