2011年 08月 07日
#445 ニライカナイから遠く離れて

同期入社のYusuke夫妻が沖縄の夏を愉しみにやってきた。たまたまぼくは那覇にいたから、夜、付き合った。昼間は知らない。初めてではないから、どこか適当なところに行って遊んでいるだろう、とおもったら斎場御嶽(せーふぁうたき)に行ってきたという。前回沖縄に来たときにぼくに「行け」といわれたらしいのだったが、場所がわかりにくいから詳細な地図を書いたか、あるいはいっしょに行ったのか(覚えていない)、駐車場があって、観光客がいたというので、そのときもびっくりした。おそらくぼくは穴場として教えたつもりだったはずだ。精神的修行が足りない我々にこそふさわしい場所だからと。しかし今回再訪問したら、こんどは入場料を取られたというのだ。これには驚いた。こころから驚いた。
琉球王国のグスク及び関連資料群が世界遺産に登録されたのが2000年で、斎場御嶽もその一部と認定されているらしいのだが、あそこはなにもない。 じつになにもない。
斎場御嶽は沖縄本島の御嶽のなかでも、もっとも神聖な場所とされ、なにもないことにそもそもの価値があって、どうしてかといえば、御嶽とはなにもないところになにかがある、とおもいこむための場所だからだ。その、なにもない総本山たる斎場御嶽に入口が出来て、建物ができて、入場料を支払う観光地になったとき、空気中に紛れていたありとある沖縄的霊験はあとかたもなく消えてしまい、ほんとうになにもないところになってしまった。
なにもないからこそ、なにかがあるという気がした20年前、ぼくはそのなにかを探してときおり斎場御嶽を訪れた。写真を撮るのも憚れるような神秘的な気配があって、シャッターの音すら禍々しく響いた。久高島を見晴らす丘の上の岩場で、よく白装束に身を包んだ人(「性高生まれ」セーダカウマリと呼ばれる生まれつき霊的な感覚が強い人々で、ユタになることがおおい)を見かけたが、あの人たち、どうしているのだろう。とても困っているとおもう。
こうやって沖縄は戦後ながい間、島民の願いでありつづけた「本土なみ」を実現してゆき、ニライカナイから遥かに遠く離れたところまでやってきている。物質だけ本土なみ、精神はニライカナイ直結、というふうに世界は都合よくできていないのだから。
with GRD3 2011/8 那覇