午前中の患者たちが去った後の待合室はガランとしていて気持ちが良かった。緊張してはいない。ぼくはそう思いたがっていて、客観的に自分の心境を分析することが難しいシーンだった。しかしながらぼくは経験的にそういったケースではほぼ100%自分が思いたがっている方とは真逆に真実があることを知っている。だからぼくは自分が緊張しているのだと判断した。窓の外で気持ち良さそうに揺れている欅の葉を眺めながら、緊張しているのに緊張していることを認めたくない自分を男らしいと思った。ジョン・ウェインやハンフリー・ボガート演じる主人公が痔の手術を受けたなら、きっとこんな感じだろうというような。そんなヒロイックなぼくだったが、診察台のある部屋から看護士が顔を出し、ぼくの名を呼んだから「あっ、ハイ」と答えて立ち上がった。診察室はいつもと変わらず病院らしい消毒液の匂いを漂わせていた。

手術とはいえ、いつも診察を受けるときとさほど心境に違いはないように思えた。もちろんそう思いたがっていたわけで、だからほんとうはとっても緊張していたわけだ。ぼくの脳はかなりズル賢くて手強いから、すぐにぼくを騙しに掛かる。いろいろと心理的な分析をしてからでないとほんとうのことがわからないから手間が掛かって仕方がない。それで思い出したけど、男と女の最大の違いって知ってるかな?

「女は自分を騙すことが出来る」

らしいんだけど、女性の皆さん、ほんとうですか?

と書いたところで、突然この言葉の出処を思い出した。なんと、前回久しぶりに名前を思い出した田村隆一じゃないか。これはストーリー展開上意図的に仕組んだんじゃなくて、いまじつは飛行機の中でこれを書いているんだけど、じっさいビックリしたのだった(ストーリー展開って何のこと? 今回も全然展開してないじゃないの! という声が聴こえてきそうだとしても)。普段彼の詩のことはほとんど忘れて生活しているけど、印象的な言葉はしっかり脳内に定着していて、知ったかぶりをする必要のあるこういうシーンでポン!と出てくるものなんだなあ、と感慨に耽りつつ、ぼくは窓の外に広がる雲海を眺めるのだった。今日はかなり揺れが激しくて、さっきフライトアテンダントがコーヒーのキャップを持って来た。メチャクチャ明るいアテンダントで、思わず「明るいねえ」と声を掛けてしまった。コーヒーのキャップを持ってくるだけのことで明るさを表現するのって至難だとおもう。彼女が乗っている飛行機だったら絶対に落ちないと思えるくらいの明るさなのだ。明るいって、ただそれだけで他人を幸福にする。ユナイテッドにも彼女みたいなアテンダントがいれば、あんなことにはならなかったかもしれないけど、で、なんだったけか、そうそう、若い頃に田村隆一のその言葉を知って、ぼくはハタと膝を打ったのだった。なにしろ5回結婚している男の言葉だけに説得力がある。ウイスキーを薄めるように言葉を意味で薄めてはいけないというストレートな詩人だ、言葉は戦艦大和の錨のように重い。なんだか女性の不思議が解明出来た気さえしたのだった。

この世の大半の女性においては、何はともあれ、自分が他人からどう見られているか(内面外面共に)という一点が最大の関心事だとぼくは信じている。よく言われる「男っぽい女性」は見かけとは無関係にこの一点の印象が女性らしくないと思わせているんじゃないかとおもうのだ。いずれにしてももし自分を騙すことが出来るなら、どう見られているかという点ではかなり都合の良い解釈が出来るだろうな、人生を楽に出来るだろうな、と男のぼくは羨望するのです。

で、女性の皆さん、自分を騙せるってほんとうですか?

と聞いてもわからないところがミソなんだよね。なんたって自分を騙せるんだから。男は自分を騙せないからつらいんです。

診察台に横になったぼくはツラツラとそんなことを思っていた、わけではなく、じつは、生まれてこのかた自分が手術と呼ばれる措置を受けたことがないことに初めて気付き、どこからともなく忍び寄って来た不安と恐怖をうっちゃろうと、3ヶ月後に予定しているイエローストーンでの釣りのことだけを考えることにしたのだったが、ウォシュレットのないモーテルやそれどころかトイレすらないキャンプのことを思い出して暗然としたのだった。こういうときにこそ底抜けに明るい看護士がいて欲しいとおもうほどに。


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# by bbbesdur | 2017-04-17 20:00 | health care

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 手術実施の宣告からおよそ1週間経った、ある晴れた日に、ぼくは再びクリニックを訪れた。街路を薫風が吹き抜け、5月の陽光を浴びた街路樹がキラキラと輝いていた。季節はぼくのお尻の状況とは、まるで無関係に夏に向かって歩調を速めていた。世の中はこんなにも輝いている。ぼくだけが憂鬱なのではない、ぼく以外にも今日のこの美しい日に痔の手術をする人がいるんだ、とあてどない共感を求めて空を見上げた。上空の遥かの高みを西に向かう旅客機が飛んでいた。その飛行機を見上げながら、座席にずらりと並んでいる乗客のお尻の想像をしている自分が哀しすぎた。いったいぼく以外の誰が空を飛ぶ飛行機を見上げて、そんなことを想っているというのだ。
 医師ひとりの小さなクリニックだから、手術は午前と午後の診察時間の合間に行う。つまり手術がある日はお昼休みが短くなるから、看護士たちはきっと患者を恨んでいるに違いない。しかもランチの直前にK門を見たり、触れたりしなくてはならないのだ。つくづく因果な商売だと溜息まじりに術後の患部を消毒しているのだろう。しかし患者のこちらだって、何も好き好んで皆さんにK門を露出しているわけではないのだ。看護士はお金をもらってK門を見て、患者はお金を払ってK門を見せるのだから、不思議なものだ(たぶん全然不思議ではない)。
 クリニックに到着すると、午前中の最後の患者が会計を済ませたところだった。ぼくは診察券を出しながら、カウンター越しにリーダーらしい受付の女性に語り掛けた。
「こんなに素晴らしい日なのに、ぼくだけが……」
 彼女はとびきりの笑顔をぼくに見せながら、
「きっと明日は素晴らしい日になってますよ」
 と言ったのだ。ぼくは『風と共に去りぬ』の「Tomorrow is another day」を思い浮かべつつも、彼女の言った明日という日の明るさを信じる気にもなったのだった。笑顔は魔法で、言葉は呪文だ。言葉があるからこそ、ぼくたちの世界には意味が渦巻き、ひいては人生にさえ意味を見出さないと生きていることにはならないような錯覚に陥るわけだ。かつて詩人田村隆一は『言葉のない世界』でこんなことを言った。

 ウイスキーを水でわるように、
 言葉を意味でわるわけにはいかない

 さすがだよね、田村隆一。居合抜きのように、詩の中に一閃言葉が煌めく。そうして出来上がった詩にぼくたちが意味を探ることを知っているからタチが悪い。4回離婚して、5回結婚しているけれども、別れた元妻たちから恨まれなかったというから、よほどいい加減な男だったんだと思う。
 というようなことを、そのとき思ったわけじゃないけども、まあぼくが内向きになっていたことだけは事実だ。

 そりゃあそうだよな、
 痔の手術の当日に、
 明るく輝いているヤツがいたならば、
 きっとソイツは太陽だ。

 やっぱ1回も離婚してないから詩も不出来だ。ところで文学者と言えば、芥川龍之介だって痔じゃなかったら、自殺しなかったかもしれない(ちなみに芥川は前回の記事で説明した内痔核が外に出てくるタイプの痔で、温めたコンニャクを使って痛みをうっちゃっていたらしい)。それもこれもK門が暗鬱な穴蔵だからいけないのだ。神様がもう一度人間を再創造するチャンスがあって、ひとつだけ希望を聞いてくれるなら、ぼくは人類を代表して「明るく開放的なK門」を希望する。便秘に悩んでいる人も、痔に悩んでいる人もいなくなり、地球は喜びに溢れる惑星になるだろう。


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# by bbbesdur | 2017-04-11 23:10 | health care

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 診察を終え、改めて診察室の椅子に座ったぼくに向かって、医師はお尻の断面模型を見せた。ぼくの痔核は内痔核と言って、歯状線(しじょうせんと読む)の内側に出来たイボ状の腫れ物のことである。歯状線はK門の奥にある。K門は外側からはシワシワの円い穴に見えているから(ぼくを含む多くの人が自分のものを見たことがないんじゃないかな)、ぼくたちは普段K門を2次元的に意識しているが、医学的には奥行きは3センチ前後あるのが普通だそうだ。で、この3センチ先には直腸がある。その直腸とK門の境目がギザギザになっていて、そこを歯状線と呼ぶのだ。つまりぼくたちが一般的にイボ痔を指しているのは、この歯状線より外側、つまりK門に出来た腫れのことで、外痔核という。ところが歯状線から内側の直腸側が腫れることもままあって、それが内痔核である。腸には痛みを感じる神経はないから内痔核そのものは痛くない。痛くなるのは内痔核が腫れ上がり、歯状線の外側、つまりK門に飛び出したケースだ。ぼくのは3つとも完全な内痔核だから痛みはなかったが、医師はついでだから処置することにしましょう、とぼくの意思を問わずにそう決めた。
「処置というと?」
「注射を打つんです、もともと神経がないところだから、あまり痛みは感じないと思います」
 そうこれが「切らずに治す」噂のジオン注射なのであった。ぼくはひとまず安心したが、肝腎の痔瘻についてどうするのかの説明はない。ぼくは恐る恐る聞いた。
「Bさん、痔瘻というのは、切らずには治せないんですよ」
 医師は銀座のアップル・ストアでMAC BOOKの値引きを訊いた客に対して「大変申し訳ありませんが、あいにくお値引きをすることは出来ないことになっておりまして」と笑顔で答える店員のように、使われている丁寧な言葉づかいと表情とは裏腹に、この決まりごとに例外はないという断固たる信念を表明した。一般的にはポーカー・フェイスが多いこの業界で、この医師はどこか役者的なというか、営業的というのか、豊かな表情を見せるのが特徴で、それはどうやら「わたしには患者さんの気持ちが十分わかっていますよ」という表明らしかった。ぼくのジョークには笑わないから、どこかチグハグな印象で、だから役者的に見えるのだ。ひょっとすると単にぼくのジョークが面白くないだけかもしれないとしても。
 わたしは1945年8月15日の玉音放送を聴いた後に日本国民が感じた虚脱感を胸にクリニックを後にした。うすうすわかってはいたけれども、やっぱりダメだったか。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたというのに、やっぱりそうか。折しもクリニックの真裏では家の建て替え工事が行われていて、トカトントン、トカトントンと小槌の音が響くのであった。

 

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# by bbbesdur | 2017-03-27 21:30 | health care