2009年 03月 16日
画家コンプレックス
秋山庄太郎は生前「写真家にならなければ、画家になっていた」と公言していた、と今月号のアサヒカメラに載っている。ぼくはその記事を読んで「うーん」と唸った。彼は早稲田大学商学部を卒業後、現在の田辺製薬に入社し、太平洋戦争の終結とともに写真家の道を歩み始めた。その経歴のどこにも絵画の痕跡はない。もちろん絵が得意だった、のかもしれない。しかし画家になれるほどの実力があったかどうか。秋山のこのエピソードは、写真家における画家への普遍的なコンプレックスを物語っているようにおもえてならない。ぼくだっていってみたい、「セールスマンにならなかったら、画家になっていた」って。でもこのblogのタイトルがいくらchromaticだからといって絵を載せるわけにはいかないから、しかたなく絵画調の写真をそっと差し出してみるのです。
with GRDII 2009/3/14 唐津市
2009年 03月 15日
夕暮れの嘘
お城の公園にずいぶん艶っぽい姿の白猫がいて海を見ていた。雲がおおく、風が強い日のことで、海面はどす黒くなったり、輝いたりとすこしも落ち着くことがなかった。ぼくは手すりに近寄って、そんな海の光景を写真に撮ろうとした。海は一刻ごとに色を変え、光を変えてぼくを幻惑した。いくら撮っても撮り足らなかったし、いくら撮ってもおなじだった。
ようやくあきらめてうしろを振返ると、猫はぼくを見ていて、腰をすこし右にずらしてベンチを空けた。坐るつもりはなかったのだが、せっかく譲ってくれたのだからとおもって腰を下ろした。すると猫はとても嬉しそうに、気楽な様子でこちらに寄って来て、さもそれが自然なことのように、片手をぼくの太腿に置いた。おもわず猫を見たが、彼女はなにごともなかったように海を見ている。ぼくは猫の白い背中にそっと触れた。するととても気持ち良さそうに目を細め、さらに身を寄せてきたのだった。成行き上すぐに立ち上がって去って行ってしまうわけにもいかなかくなった。
そうやって彼女と戯れているうちに日が暮れてきた。ベンチを立ち去るとき、ぼくはとてもせつなくなった。「明日またくるよ」と嘘をついて、城を降りた。
with GRDII 2009/3/14撮影 唐津城
2009年 03月 14日
自由と将来はどこにある?
「子供たちは自由だ」とか「将来がある」とおもって彼らを羨ましがりたがる自分がいる。けれどもすくなくともぼくがこの自転車の少年くらいのころには、自分が自由だなんておもったことはなかったし、将来が輝かしく見えたこともなかった。それからずいぶん月日が流れはしたけれども、あのころとおなじくらいにいまのぼくも自由ではないし、将来なんてない。だからといってぼくの人生に自由がなかったか、将来が輝かしくおもえたことがなかったか、というとそうでもなくて、つまるところ将来も自由もあるときには見えないものだ。だから、よくよくかんがえてみれば、いまのぼくにだって将来や自由がないわけではない、ということになる。すごい! ぼくに将来があるなんて!
with GRDII 2009/3/14撮影 嬉野