#694 痔の話 第20回



 診察室から戻ってきた看護師は消え入るような声で、

「すみません、ないんです」

 と言った。医師は一瞬沈黙した。ぼくはなぜか不意に「神隠し」という言葉を思い出した。神様サイドに何らかの理由や事情があって、メスを隠しているのかもしれなかった。

 ぼくの長い会社人生の中で、この看護師の立場になったこともあれば、医師の立場になったこともある。この時の医師の気持ちは痛いほどよくわかった。医師が必要としていたメスを準備していなかったのは看護師の責任でありながら、その指示が徹底されていなかったという点で上司である医師のマネジメント・ミスでもある。能力に秀でた部下を持つ上司は楽だが、能力の劣った部下を持つ上司は辛い。というのも部下の尻ぬぐいをしなくてはならないという現実的な手間暇、苦労もさるもことながら、それよりも自分のマネジメント能力不足が部下のミスによって証明されてしまうことが辛いのだ。だから一般的に能力のない上司は、腹いせに失敗した部下を叱咤する。部下に恵まれていないことを嘆き、自分のマネジメント能力を棚に上げる。しかしこの医師は上司の器の大きさが試されるようなそんなシーンでこう言ったのだった。

「そうですか、なくても問題ありません」

 安堵した看護師の心持ちがぼくにも伝わってくるような空気がお尻越しに漂ってきた。しかしながら看護師の安堵とは裏腹に、透明な波が打ち寄せるビーチを凝視している患者としては限りなく不安だった。なくても問題ないとしても、あるに越したことはないはずで、元来、道具というものは大概の場合、汎用性ではなく、専用性を指向しているものなのだ。先日、fbでいただいたFさんのコメントのように、スコップが必要なシーンでありながら、強引にユンボを使わざるを得ない状況なのではないかと疑ったのだ。なにしろこの医師は手術の腕前はともかく、患者との心理的駆け引きに長じていて、患者に不安な気持ちを抱かせない手練手管を心得ているから、医師の言葉をそのまま素直に信じることは出来なかった。医師はもちろんぼくが透明な波が打ち寄せるビーチを凝視しているふりをしながら、全身を耳にして彼らの会話を傍受していることを知っているのだ。それを十分わかっていながら口にする「なくても問題ありません」という返答は、間違いなくぼくに向かって発せられた言葉のはずだった。




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by bbbesdur | 2017-06-20 22:59 | health care