カテゴリ:短編小説( 41 )

#414 シャツ伝説

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 彼がそのピンクの長袖シャツを買ったのは6年前のことで、しばらくは外出用として着ていたが、袖と襟首にほつれが出てきたのを境に、2年前に部屋着へとローテーションした。それまで使っていたのはブルーのストライプシャツで長い間の勤めを終え、ボロボロの姿になって引退した。
 交代式でピンク・シャツは、ストライプ・シャツと長袖同士で握手をして、彼に聴こえるか聴こえないかの小声で「ごくろうさん」といった。彼は長年の勤めを慰労するように、丁寧にストライプ・シャツの皺を伸ばした後、ゴミ箱に入れた。
 そのときピンクシャツはぐすぐすと泣いた。彼は、
「しっかりしなさい、シャツには悲しみが似合わないぞ」
 といった。するとピンクシャツは、
「すみません、しかし悲しいわけではありません。わたしも是非ストライプシャツさんのような立派な働きをしたいと、おもいあまって泣いているんです。パンツさんや靴下さんやブラジャーさんにはわるいのですが、我々誇り高きシャツには脈々と引き継がれてきた伝説があるのです」
「ほう、それは知らなかった。どんな伝説なんだい?」
「皺を伸ばして捨てられたシャツは、また次に生まれ変わってもシャツになることができるんです」
「そうだったのか」 
 昨日、ピンク・シャツが寿命を迎えた。彼は皺を伸ばした後、ふいに手を止め、シャツをアイロン台に運んだ。
 彼は丹念にアイロンがけをしながら、スチームが出ていないのに奇妙にしっとりと湿り気のあるピンクシャツに手をやりながら、彼と出会った日のことをおもいだしていた。
 with GRD3 2011/5
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by bbbesdur | 2011-05-06 14:56 | 短編小説

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 小田急線相武台前駅の構内に米兵らしきひとりの若者が立っていた。彼は、目の前のポスターがどうしても気になって仕方がなかったのだ。彼は米国人が通りがかるのを根気よく待っていたが、そういうときにかぎって、だれもやってこない。ひどくスカートの短い女子高校生の集団が階段を上ってきて、彼の前を通ってゆき、しばらくしてからくすくすと笑いながら振り返った。日本の女子高校生はスカートが短すぎる、と彼はおもった。
 彼の目の前には猿が温泉に入っているポスターが貼ってあるのだった。
 猿の表情はまるで人間そのものだ。あまりに心地良さそうに湯に浸かっていて、彼はどうしてもこの場所がどこかを知りたいのだ。
 日本人のビジネスマンがホームから階段を上がり、彼を見て、そしてポスターを見て、微笑みながら通り過ぎようとした。彼はおもいきって声をかけた。
「スミマセン !」
「なにか?」
 幸運なことにビジネスマンは英語を話した。きっとキャンプ座間に仕事があるのだ。
「あの写真がどこで撮られたかわかりますか?」
 ビジネスマンはこともなげに頷いて、
「長野県の地獄谷というところだ。駐車場から30分歩けば、だれでも見ることができる。スキーはするかい?」
 と訊いてきた。
「スノーボードならやります」
「いいゲレンデがたくさんあるところだよ」
「ほんとうに!」
 やっぱり、雪があるからゲレンデもあるとおもった。勘が当たった。
「いっしょにスパに入れるのでしょうか?」
「ノーだ。毛づくろいを手伝ってやらないと、引っ掻かれる」
 この日本のビジネスマンはおそらくジョークをいっているのだろう。彼は念のために笑い返した。
「ここからは遠いのでしょうか?」
「彼女と日帰りドライブというわけにはいかないな」
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 若者はジーンズの後ろポケットから財布を取り出し、一枚の写真を引っぱり出した。ブロンドの短い髪が風に吹かれていて、若さがはち切れそうな笑顔でカメラを見つめている。彼がいちばん好きな写真だ。
「アンジェです。来るんです、来月、日本に、ぼくに会いに。とってもスノーボードが好きなんです。でも、ぼくはスノーボードなんかより、彼女が好きなんだ。待ちきれないんだ」
「その気持ちはわかるよ。私もスノーボードのような固いヤツより女性が好きだ」
 若者は念のために、また笑った。
「それでもってアンジェは犬でも猫でも、熊でも馬でも猿でもなんでも、ともかく動物が目に入れば、キュート!、って叫んで近寄って行くんだ。野生の猿がスパに入っている姿を目にしたら、きっと夜眠れないほど興奮するんじゃないかなって、このポスターを見ておもっていたところだったんです。せっかくカリフォルニアから来るんだ、是非連れて行ってあげたい」
「わかった。もし君さえ良かったらメールするよ。正確な場所と行き方や宿とかの情報をさ」
「ほんとうですか! もしそうしていただければ助かります。こころから感謝します!」
 彼はほんとうに嬉しかった。ドイツにいたときもそうだったが、異国の地で受ける優しさは、ちょっとしたことでもこころに響く。
 彼はビジネスマンが差し出した手帳にメールアドレスを書き込んだ。
「きっとアンジェは死ぬほど喜びます」
「年長者として、君にひとつだけアドバイスさせてもらっていいかな」
 ビジネスマンは手帳をバッグに仕舞いながらそういった。
「もちろんです」
 彼はすこしだけ居心地がわるくなった。日本という国は保守的で、なにかにつけてルールにうるさい。気づかないうちに、なにか失礼なことをいったり、やったりしてしまったのだろうか。
「彼女を夜、興奮させて眠れなくさせたり、死ぬほど喜ばせたりするのは、猿の役目じゃないってことだ」
 彼はこんどははっきりとビジネスマンの言葉を理解した。かつて学んだ鬼軍曹にしたように、直立不動の姿勢になって最敬礼をし、
「Yes, Sir !」
 といった。
 with GRD3
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by bbbesdur | 2011-01-11 20:18 | 短編小説

#377 ホームページの怪

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 昨年の大晦日の晩に、付き合いのながい釣友から以下のようなメールがあった。あまりに子供じみたバカバカしい内容だったので放っておこうかともおもったが、どうしてもオマエのblogで紹介してほしい、というので、仕方なく掲載する。誤字脱字がおおく、意味不明の箇所が無数にあったのを、修正したのが以下の文章である。

 読み物と写真やイラスト中心に、部屋のなかでフライフィッシングが愉しめるホームページがあったらいいなあ、とおもいついたのは昨年の春くらいだったかなあ。オレだけじゃなくて、仲間内でいろいろな新しいアイディアを持ち寄って、自分たちで愉しむってのはフライフィッシングのまたひとつ別な愉しみだよな、っておもったんだ。うん、このアイディア、イケる、イケるって、ひとりで盛り上がってた。
 オマエも知ってのとおり、オレ、去年めちゃくちゃ仕事が忙しかっただろう。ほら、米軍関係の入札でさ。で、ぜんぜん釣りに行けなかったじゃないか。なんども誘いを断って悪かったけどもさ。今年あれだけ気合いが入ったのは、たぶんその反動だったとおもうんだ。2度もアメリカに釣りに行って、北海道はオマエといっしょに行ったのを含めて3回、それに秋田は出張帰りになんども行ったし、四国も2回行った。そうそう3月には待ちきれなくて会社の仲間と雪の蒲田も行ったっけか。
 まあそんなこんなで久しぶりに釣りに夢中になっていて、わかったことがあって、フライフィッシングは仕事の片手間にはできない、ってことだったんだ。仕事かフライかどっちかを選べって、だれかわからないけど、釣りの神様かなにかに選択を迫られているような気がしたんだ。
 で、じっさい、そうしちゃっているヤツおおいじゃないか。オマエも知ってるAもBもCも、昔は会社に勤めていたけど、いまはショップやってたり、バンブー作ってたりするだろ。
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 夏にイエローストーンのマジソン・リバーでひとりで釣っているとき、真っ青な空にひとつだけ、まんまるの雲が流れてきてさ、そのとき空を見上げて、会社辞めたいな、ってこころの底からおもったんだ。そのとき、ふいにホームページのことが頭から出てきて、そうか、あれならいけるかもしれないな、とおもった。いまは無理でも、すくなくとも、なんらかの形態で一年後あたりにビジネス化するときの宣伝にはなる。もし、ビジネス化がムリそうだったら、会社を辞めなければいいし。
 で、最初にかんがえたのは、AやBやCの店の広告をホームページに載っければ、多少は彼らの役に立つんじゃないかな、ということだったんだ。フライフィッシング業界は、いままさに冬の時代だろ。AもBもCも口を揃えて、かなり厳しい、ほんとうに厳しい、なんとかしてくれ、っていうから、じゃあ、ここらでいっちょうフライフィッシング界を盛り上げてみるか、って気になってきた。オレがやらなくてダレがやる、ってなかんじでな。
 おもいかえせばそうかんがえたことが、大まちがいの始まりだった。
「ならばもっとそのアイディアを拡大して・・・・・・」とほかの友人が懇意にしている店も載せよう、おおけれおおいほど盛り上がるじゃないの」と激しく曲折していった。それがかえって競争を生んで、店同士がいっそう激しく争わなくてはならなくなるとはおもわなかったんだ。結局、オレがやろうとしていたのは、我田引水の標本みたいなケースだった。
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 残念なことには、自分の醜さっていうのは、自分では気がつきにくいものだろ、で、たいがい外部からの風の便り、とか悪評、という形で、本人の耳に入ってくる。
 ある人物からの遠回しなメールで、オレはハタとその事実に気づいた。自分の醜さと愚かさを知って激しく落ち込んでいるその矢先に、さらにちいさな事件が追い打ちをかけた。
「どうせなら友人の役に立ちたい」というオレの気持ちそのものにウソはなかったはずだが、自分がやろうとしていることのためにもなる、という打算もあったはずだ。もちろんホームページを、あるいはオマエがやっているあのTOKYO/NAHAなんとかっていう軽薄なブログ、なんかを作るというのは、どう理由をこじつけてみても自分のためでしかないとしてもだ。
 そりゃあ、オレにだって、「表現」というものはすべからく自己という、哀しい欲望の塊としての人間のはけ口なのだ、と認識するくらいの自覚はあるさ。じっさいオレは文学や絵画や音楽を、ある傾向の人々の、やむにやまれぬ文化的排泄行為とおもってる。なかなか言い得て妙だろう。まさに、いまオレは排泄をしたわけだ、気の利いた言葉をかんがえることによって。
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 他人の欲望のはけ口としての「表現」をアートと呼んでみたり、芸術といったりして、ありがたがるのが、人間の不思議であり、愉しみであり、喜びであることは、もちろん否定しないさ。文化的うんこをしないでは生きていけない人間もいれば、そんな彼らのうんこを必要としている文化的スカトロ系のヤツもいる。
 でもさ、問題は本人がその「表現」をエラい、とか「人のため、世のため」なんて思い込みやすいことなんだ。表現が自分のための排泄だってことを、きれいさっぱり忘れてしまってさ。たしかに肥溜めは、明日を生きるために育てる畑の作物に必要ではあるけどもね。
 ちょっと話が逸れたけども、ともかく今回のオレはまさしく自分のうんこがありがたがられると信じた愚かな阿呆だった。フライフィッシング界のために、オレは良いことをしている、という勘違いを起こしてしまったんだ、いつの間にか。いつとも知れない独り酒の晩だったか、ショップでAと語り合っている最中であったか、工房でBが削る竹の匂いを嗅いでいるときだったか、あるいは初めてのアメマス釣りで63センチを釣り上げたときだったか、あるいは客先でのプレゼンテーションが終わったときだったか。
 オレは普段、そういった勘違い男(女のケースもままあるが)を激しく憎んでる。自分の愚かさ加減にまるで気がつかないで、よくもそんな阿呆面さげて、公衆の面前に出られるものだなあ、と。
 そして、それは、今回、非常に残念なことには、オレ自身だったんだ。そう気づいたときの衝撃がどのくらいだったか、というと、すくなく見積もっても、C子に男がいる、って知ったとき同等だったとおもうよ。あのときもショックだったけども、まあC子とはそろそろ別れ時だったわけだし、今回の方がキツかったかもしれない。あのときはオマエにも迷惑をかけたけどさ。
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 オレはもうホームページなんて止めてしまおう、その方がどんなに楽か、そもそもどうしてホームページをつくろうなんておもったのか、というふうにおもいはじめた。
 でも、そもそもの発想は「フライフィッシングのホームページを作って、仲間内でいろいろな新しいアイディアを持ち寄って、自分たちで愉しむ」であったはずで、それは「自分でフライを巻いて、友達と水辺に行って、魚を釣って、リリースして愉しむ」という過程となんら変わらない、遊びの一形態だったはずなんだ。
 初心を忘れていたって気づいた。
 そうおもって、もういちど気持ちを「遊ぶ」ことに切り替えようと努力したんだ。遊ぶことにも努力が必要だとはおもわなかった。
 で、ホームページ開設予定の元旦まであと数日と迫ったある晩に、オレは決心して「遊ぶのも大変だよなあ」と溜め息をつきつつ、MACの前に坐ったんだ。で、宣伝の載ったホームページの一部を「エイッ!」とばかりに、バッサリと削除した。
 そのときだった。
 ふいに両肩が軽くなったんだ。驚いたオレが頭上を見上げると、憑依していたなにか(あれは欲望の塊だったとおもう)が、ゆらゆらと揺らめきながら、天井の木目のなかに消えてゆくところだった。うらめしそうに、未練たっぷりの色目でオレを見つめながらね。
 with GRD3/D700 TAMRON 90mm MACRO/GF-1 20mm 1.7
*フライフィッシングWEBマガジン「ふらい人」創刊しました。
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by bbbesdur | 2011-01-02 22:13 | 短編小説

#376 聖母の泪

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 プラットホームはあのときとおなじように、たくさんの人でごったがえしていた。この駅だった。クリスマスイブのあの日、彼女は吊り革につかまりながら、窓の外を見ていた。京浜東北線と山手線がおなじホームに発着する駅でのことだ。
 彼女が乗っている山手線の車両は反対側のホームから乗り換える乗客を待っていた。京浜東北線の車両が停車すると、開いたドアから乗客が溢れるように出てきた。
 ひとりの男がいた。
 窓の外を眺めていた彼女は人ごみを掻き分けてくるようにして車両にちかづいてくるその男を、おそらくは車両のドアが開いた瞬間から見つめていた。男が格別目立つ服装をしていたわけでも、ルックスが良かったわけでもない。
 ただ、わたしには目立っているのだ、とおもったとき、彼女は恋に落ちた。
 男は車両に入ってくるなり、まるであらかじめそこが定められた空間であるように彼女の左脇に立った。
 男の身体から、南の島に咲く花のような香りが漂ってきた。彼女はひっそりと目を瞑り、男とふたりでだれもいない島の浜辺に寝そべっている自分を想像した。音もたたないほどに静かな波がふたりのからだを舐めるように満ちては引いていった。
 ふいにちいさな風が巻き起こり、目の前の乗客がふたり揃って立ち上がった。彼女が波間に身を沈めるように座席に坐ると、男も夢のなかに倒れ込むように彼女の隣りに坐った。
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 日は高く、海岸に立つ椰子の木が白い浜辺に黒く細い影を作っていた。ふたりが頭上の椰子の実を見上げると吊り広告には「カップルで行く大人の沖縄」とあった。男の体温が伝わってきて、いっしょに行かないか、という声が聴こえたような気がした。彼女は、ただちいさくこくりと頭を垂れた。
 ふたりは寄り添うように浜松町で降りて、羽田空港に向かった。
 不思議なことには彼女には罪悪感も高揚も、あるいは感情すらもなかった。恋をしているのに、こんなことってあるの? と彼女は自分に問いかけたが、わからなかった。彼女は自分に訪れるべきときが訪れているのだとおもった。
 沖縄ではいつもの倍以上の速度で時間が流れた。時間が飛ぶように過ぎてゆくのだ。たちまち夜が来て、ベッドの上で彼女は泣いた。快楽で泪が流れ出すことを初めて知った。まどろんでいたはずが、すでに夜明けだった。朝の砂浜に出てのんびりとするようなことはできなかった。ふたりは出発時刻ぎりぎりまで愛し合った。
 帰りの便が羽田に到着し、ふたりはモノレールに乗って浜松町にもどった。
 そうして、出会ったこの駅で男は降りて、京浜東北線に乗り換えた。男は振り返らず、ぽっかり空いた車両ドアの空白のなかに消えていった。
 彼女は吊り革につかまったまま、幸福そうに微笑んだ。ふいに目の前に坐っていた中年の女性が立ち上がり、彼女に席を譲った。
「もうすぐね」
「ええ、もうすこし」
 彼女はすでに立派な母の表情をしてそういった。
 with GRD3/D700 Tamron90/2.8macro 12月東京
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by bbbesdur | 2010-12-26 00:33 | 短編小説

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  頭上をJALの真っ白な機体が左におおきく旋回し、着陸態勢に入ってゆく。フェリーの窓から空を見上げて、彼女はいった。
「やっぱり飛行機にすれば良かった、っておもってるんでしょ?」
 サンフラワーだいせつが大洗を出発したのは午前1時45分。14時間以上かかって、ようやく青森県の沖合を通過しているのだ。
「ねえ、そうでしょ?」
 胃のなかにはもう吐き出すものがない。男は口を開く気になんてならない。ただ、犬のように、うーっ、というちいさな唸り声を発しただけだった。
「あなたなんだからね、フェリーで北海道に行ってみたいっていい出したのは。飛行機だったら、たった1時間半で着くっていうのに。しっかりしなさいよ」
「うーっ」
 男は気分がわるくてほとんど思考する力を失っている。しかしたしかにそれは彼の提案だった。彼は、
「太平洋で見上げる冬の夜空にどれだけおおくの星が瞬いているか知っているかい?」
 といって説得したのだった。彼女は、きっととっても寒いわ、と口にしかけて止めた。彼が、
「ふたりでひとつの毛布にくるまって見る満天の星空はきっと一生忘れられないものになるよ」といったから。
 しかし現実はちがった。彼はフェリーが港を出た直後から船酔いで、ずっと寝たきりだったのだ。かいがいしく彼の面倒を見ていた彼女自身も数時間後には気分がわるくなった。どこにも脱出できないこの状態が、あと10時間以上もつづくのだ。彼女はほとんど絶望した。
「あの飛行機の窓からわたしたち見えてるわよね」
「うっー」
「ばかだなあ、っておもってるでしょうね」
 ちょうどそのとき、彼女が見上げる飛行機の機内では最終の着陸態勢に入ったというアナウンスがながれていた。窓際に坐ったひとりの男がテーブルを元にもどしたとき、眼下にフェリーが見えた。海は荒れていて、横腹に描かれた太陽がまるで冗談のようだ。激しく白波をあげつつ、北上している。苫小牧へ向かっているのだ。
 いつかやってみたい。彼女とふたりで大洗を出発して、夜甲板に出て、ふたりで星を見るんだ。きっとわすれられない思い出になる。いつか、きっと、やってみよう。
 彼はそうおもった。
 with GRD3 2010/2/3撮影 八戸沖
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by bbbesdur | 2010-02-04 07:45 | 短編小説

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 白いコートに、さらに白い小雪が降りかかっていた。コートは上品で、暖かそうで、ひょっとするとカシミアかもしれない、と彼はおもった。出てきたバスカードを薄桃色の爪先でつまみあげながら、彼女はいつものようにまっすぐに彼を見て、
「こんばんは」
 といった。哀しいくらい美しい笑顔で。そんな彼女を見て、彼はほんとうに悲しくなった。この笑顔を、この声を聞くのも、今日が最後なのだ。
「こんばんは」
 彼は無理に笑顔をつくって、そう答えた。
 彼は12月25日生まれで、ちょうど60歳の明日で定年を迎え、クリスマス・イブのこの最終バスが最後の乗車だった。
 彼女はまるでそれが自分の予約席のように、運転席の真後ろに坐った。
 海岸沿いを走るこの路線は彼のお気に入りで、在職最後の年はわがままをいって優先した乗車を認めてもらっていた。30年以上かけて貯めた財形貯蓄を頭金にしてようやく買った自宅がちかくにあって、最終バスでそこにもどってゆく感覚が好きだったのだ。それも今日が最後だ。彼は運転席の左上にある時計を見上げた。
 22時50分。
 運転席の窓から駅の改札口を覗いて、乗り遅れた乗客がいないかどうかを確認した。最後のバスに乗客はひとり。ラスト・ランにふさわしい賑わいじゃないか。そう自虐的になりかけた彼だったが、背後で身じろぎする彼女の気配に、気を引きしめなおした。さあ、最後の一走り、メソメソしている場合ではない、きっちり最後まで安全運転で彼女を家まで送りとどけなくては、とおもいなおしてハンドルをおおきく右に切った。バスは低いうなりをあげて発進した。駅前のロータリーを半周し、TSUTAYAやマクドナルドが並んだ一角を抜けると、街道はすぐに暗くなった。
 半年ほど前から、彼女は毎晩この最終バスに乗って帰ってゆく。海沿いの道を抜けて、五つめの十字路にあるバス停で降りて、バス通りをそのまま海にもどるように歩いてゆく。彼はバックミラーに映る彼女の後姿を見ながら、毎晩、独り身の寂しさをかんじる。ことに昨年のクリスマスに飼っていた雌犬のピカを事故で失ってからは。
 海岸に向かう街路のプラタナスはすっかり葉を落とし、街灯があばら骨のような幹で路上に影を作っている。雪は激しくなりつつあった。ワイパーを止めたままにしておくと、フロントガラスを覆い始める。
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 念のためにブレーキのテストをする。だいじょうぶ。まだまだ路面はしっかりしている。
「ホワイト・クリスマスですね」
 背後で彼女がそういったとき、彼は彼女が同乗のだれかに話しかけたのだと不思議な勘違いをして、黙ったまま運転に集中していた。
「わたしの声が聞こえませんか、高橋さん、高橋正夫さん」
 そう呼ばれても、どこか上の空で、空耳のようにかんじていた彼だったが、さすがに名前まで呼ばれて我にかえった。なぜ彼女はわたしの名を知っているのだろう、と不思議な気分がつづいたが、すぐにフロントガラスの上部に貼られているネームプレートに気づいた。
「すみません、運転に集中していたもので」
 彼は正面からぶつかってくる雪に向かってそういった。
「そうですよね、こちらこそ、ごめんなさいね。運転の邪魔をしてしまって」
「いえ、大丈夫ですよ」
「高橋さん、今日で最後なんですってね」
 このときばかりは、さすがに驚いた。
「いやー、まいったなあ、お嬢さん、だれから訊いたんですか?」
「ないしょです」
 背後の彼女はそういって、くすりと笑った。
「悪いことはできないなあ」
 と答えながら、彼は何人かの同僚の顔をおもいだしていた。あんまり良い趣味とはいえないが、営業所の控え室で乗客が話題になることは日常茶飯事だ。いまどきの若い運転手は禁止されているというのに、気安く乗客に話しかけるから時代は変わったものだ。こっちも老いるわけだ、と彼はおもった。
「ながいあいだご苦労さまでした」
「なんだかねえ、定年だなんて、ぜんぜんそんな感じがしないんですがね。明日から、いったいなにをすればいいのか」
 彼は雪の向こうの路面に気を配りながらそういった。自分の胸の内をはじめて話す人物に語るなんて。彼はそんな自分にびっくりしたが、かんがえてみれば毎晩のように挨拶はしてきたのだ、とおもいかえした。
「ながいあいだには、いろんなことがあったでしょうね」
 そう、それは彼がこの数週間おもいつづけてきたことだった。定年を間際に、これまでの人生を振り返ったが、いろんなこと、などどこにもなかった。ひたすら毎日の運行でたゆまぬ安全運転を心がけ、人はおろか、犬猫いっぴきたりとも轢かずにきた。
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 それだけが自慢だが、事実ほかに自慢することなどひとつもなかった。会社の幹部はそれを褒めてくれるけれども、自分にはほかの生き方などなかった。あたりまえのことを、あたりまえのようにしかできない男なのだ、オレは。イエス・キリストとおんなじ誕生日でありながら、こうもちがう人生かい。まあ磔は勘弁してほしいとしても。彼はそうおもいながらも、しかし人生これからという若い女性を幻滅させたくはなかった。
「そうだね、いろんなことがあったよ」
 と彼は答えた。
「聞かせてほしいな、高橋さんの、そのいろんな話を」
 彼は黙ったまま、フロントガラスにぶつかってくる大粒の雪を見た。
 もちろん悪気のあるはずもなかったが、彼女の言葉に彼は傷ついた。いろいろどころか、彼は女性と恋をしたことすらなかったのだ。
 海に突き当たる交差点の信号は赤だった。彼はこころもち早めにブレーキを踏み、停止線から数メートル余裕を持たせて止まった。
 右方向からやってきた黒い車が黄色信号を無視するように勢いよく左折してきた。わずかに積もり始めた雪がタイヤを滑らせた。停車しているバスに驚いたように、運転席の若者はハンドルを切り、間一髪のところで車体を立て直して、走り去った。彼が停止線ぴったりにバスを止めていたら、まちがいなく事故になっていただろう。彼は、これまでなんどもこうして事故を未然に防いできたのだ。
「高橋さん、じつはサンタクロースだったのね」
 背後で彼女はそういった。彼には意味がわからず、
「おいおい、なにをいい出すんだい」
 と聞き返した。
「もしぶつかっていたら、彼は彼女との待ち合わせに遅れるどころじゃすまなくて、とっても惨めなクリスマス・イブになっていたんだわ」
 じっさい彼は事故を起こさずに済んだ男が、すこしは雪を意識して運転するようにと願っていた。
 信号が青に変わって、バスは海岸沿いの一本道に出た。
「高橋さん、お願いがあります」
 彼は背後にちいさく響いた彼女の真剣な口調に驚いた。
「なんだい?」
 彼はできるだけ柔らかな口調でそういった。
「高橋さんの最後の日に、わたしを自宅まで送ってください。もちろん知っています、それが重大なルール違反だということは。でもどうしても送ってほしいんです、高橋さんに」
 彼は驚きのあまり、返事をすることもできなかった。
「いや、それは・・・・・・、そんなことは・・・・・・」
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 そのとき彼の胸のなかに、これまで一度も冒険や逸脱をしたことのない自分の人生への悔いが生まれ、燃え広がるようにからだを熱くした。自分自身への恨みつらみが彼の頬を火照らし、ひどく喉が渇いた。いちども女性と付き合ったことのない自分がする、最初で最後のクリスマス・プレゼント。そうおもった瞬間に彼のこころはきまった。
「どこだい、お嬢さんの家は」
「高橋さん、一生の思い出にするわ」
 彼は高揚した心持ちのままアクセルを踏み込み、海辺の一本道を疾走した。オレンジ色のナトリウム灯が規則正しく彼の左頬を明るくしては、暗くした。きっと背後の彼女もいっしょに明滅している。クリスマスのイルミネーションのように。このままこの一本道を走りつづけたい。
 彼は海から荒々しく吹きつけてくる雪のつぶてと闘うようにアクセルを強く踏みながら、まるでちがった人生の一本道を走っているような心持ちになっていた。血が騒ぎ、若さが蘇ってきた。そうだ、オレは車が好きで、バスの運転手になったのだ。
 海から別れる三叉路の信号は赤だった。降りしきる雪のなかで、彼の行く手を阻むように真っ赤に燃えていた。唐突に突っ切りたいという衝動が生まれたが、おもったその瞬間に背後の彼女が息を呑んだ気がして慌ててブレーキを踏んだ。
 いつも彼女が降りるバス停が遠くに見えた。その三つ手前の交差点で背後から
「つぎの角を左です」
 という落ち着いた彼女の声が聴こえた。
――あり得ないバスルート。つぎの角を左に曲がると、別な人生がある。
 彼はそう信じた。
 自分が出したウインカーがカチカチといつもよりおおきく音を鳴らしているような気がした。左折したとき彼のこころは、嵐の後の水たまりのように静まりかえっていた。
 バスは細い道をゆっくりと進んだ。雪のなかを歩いている人は絶無だった。道は海へとつづく彼の散歩コースへと出た。バスの運転席から間近に見ると、住宅の軒先はずいぶん低く、見慣れた街がまるで知らない街のように見えた。
「つぎを右に」
 と彼女がいったとき、彼は、おや、とおもった。ずいぶん近所に住んでいたのだ。
「なんだ、町内会仲間だったんだね」
 彼は親しみを込めてそういったが、彼女は答えなかった。バスは雪のなかをゆっくりとすすみ、彼の自宅前を通過しようとした。そのときだ、唐突に降車ランプが点灯し、ブザーが低く鳴ったのは。
「ここです」
「おいおい」
 彼はなにかの冗談だろうとおもって、そう答えたが、かんがえてみれば彼女が自分の家を知っているはずがなかった。彼の笑顔はそのまま凍りついた。自分の心臓が鼓動する音を自分自身で聞くことができた。耳鳴りがした。右手が自然にドアの開閉レバーに伸びて、降車ドアを開けた。彼は振り向かなかった。
 バスの床にビッコを引く四つ脚が、ぎくしゃくとステップを降りてゆく音がした。
 彼は自分の視界が曇っているのは、雪のせいだとおもっていた。強さを増した雪のなかをバスはふらつきながら進んでいった。
「メリー・クリスマス、ピカ」
 走り去るバスの後部行き先案内板が、くるくると回って「回送」で止まった。

ー1年前に愛犬を失った沖縄の同僚Y.Tさんと今日退院したばかりのT.Tさんへ

 with D700 DISTAGON 2.8/25mm *T 2009/12/25撮影 自宅
 with GRD3 2009/12/22撮影 岩国
 with GRD2 2009/3/3撮影 鶴川駅
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by bbbesdur | 2009-12-25 23:54 | 短編小説

#258 アップルパイ

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「ねえ、今夜の忘年会って、あんまり食べるものないわよね?」
 彼女はバイパスの先にマクドナルドのサインが見えたタイミングでそういって、彼の同意を求めた。ふたりが付き合い始めて3年になる。
「そうだね」
 彼はそう答えた。忘年会が食べ放題、飲み放題であることを彼女が知らないはずはなかった。理由がほしいだけだ。
「どうしようかしら」
「わかった」
 彼はちかづいてきたマックの駐車場に車を入れた。夕空はまだ暮れきってはいなかった。彼女は窓際の座席に坐って、空を見上げた。彼はカウンターに行き、注文をした。その間、彼らは一言も口をきかなかった。彼はプレミアム・コーヒーふたつを注文した。そして彼女のいる窓際の席を振り返った。彼女は空を見上げていた。彼はアップルパイを注文した。
 彼女は彼がトレイをテーブルに置くなり、アップルパイに手を伸ばした。
「ほんとうに好きなんだなあ」
 彼女は頷き、ほんとうに好きなのは、アップルパイじゃないわよ、とこころのなかでそっと呟いた。パイの熱い中身が舌を焼いたけれども、彼女はすこしも気にしなかった。
 with GRD3 2009/12/18撮影 コザ
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by bbbesdur | 2009-12-21 00:30 | 短編小説

#240 Tシャツ

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 彼は長期出張中のニューヨークのコインランドリーで女同士の諍いに巻き込まれた。あまりに言葉が汚くて、なんといってお互いを罵り合っているのか理解できなかった。激昂した黒人の女が白人の女の頬を張り、白人は黒人につかみかかった。彼は、待った、待った、といってふたりを引き離した。黒人は泣きながら走り去った。
 白人の女はぐったりとした様子で椅子に腰を下ろした。彼は、一刻も早くその場を去りたかったのだが、なにしろ彼の下着はいまも乾燥機のなかでぐるぐると回っているのだ。彼は外を眺めて、黙ったままでいた。女は泣いていた。しゃくりあげては、堪えて、また我慢できずに声を漏らした。彼は手持ち無沙汰のままに、女の正面で回っている洗濯ドラムをなにげなく見た。そこには男の顔があった。宇宙船の窓から死人が船内を覗き込むように見え、彼は咄嗟に身を引いた。すぐにTシャツにプリントされたものとわかったが、気味のわるさは胃のなかに残った。
 翌日、彼がちかくのレストランでコーヒーを飲んでいると、店に昨晩の黒人女性と見覚えのある顔の黒人が入ってきた。男はTシャツの男だった。女は男の顔がプリントされたTシャツを着ていた。女はほんとうに幸福そうに笑い、男の腕をしっかりとつかんでいた。
 with GRD3 2009/11/20撮影 那覇
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by bbbesdur | 2009-11-29 01:52 | 短編小説

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 このごろ彼は彼女と追いかけっこをしているような気分になることがおおい。まるでビートルズのハロー・グッドバイだ。
——君は「いいわ」といい、ぼくは「いやだ」という。君が「やめよう」といえば、ぼくは「行こう」という。ぼくが「こんにちは」といっているのに、君は「さよなら」をいう。
 あの歌のふたりがすれちがいをかんじて、別れることになったのは、付き合い出してからどのくらいが経ってのころだったのだろうか。彼がまだまだ彼女を知らないつもりでいるのに、彼女はもう別れの気分だなんて、気持ちに差がありすぎる。ひょっとすると自分たちもハロー・グッドバイのふたりとおんなじ状態なんじゃないか? 付き合い始めてまだ一年も経っていないのに。
 心配になった彼が彼女の手に触れようとおもった瞬間、彼女はヤシの木から手を離して、波打ち際へ行ってしまった。
 with GRD3 2009/11/22撮影 奥武島
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by bbbesdur | 2009-11-24 08:46 | 短編小説

#227 言葉は魔法

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 8年ぶりに会った彼女はずいぶん老けて見えた。
「ぜんぜん変わらないね」
 なぜそんなことをいってしまったのか、わたしはそう口を滑らしてしまった。案の定彼女は、
「あなた嘘つきね」
 といってわたしを見た。わたしは失敗したとおもった。この8年間、嘘などついたことがなかったのに、なぜこんな重要な場面で。
 彼女は、
「あなたこそ、ちっとも変わらない」
 といった。
「そうかな、白髪も出てきたんだけど」
 わたしはそういって、前髪を一束つまんでみせた。
「ちがうわよ。嘘がヘタなのが、ちっとも変わらないっていってるのよ」
 わたしは元気なく笑った。8年前、彼女は「あなたは嘘がヘタだから」といって去っていった。わたしがいちどだけした浮気のあくる日のことだった。
 それから8年間、わたしはけっして女性には嘘をつくまいとおもって暮らしてきた。ヘタな嘘ならつかなければいいのだ、とおもいきめて。それなのにわたしは、なぜか女性から疎んじられ、会社でもほかの男よりもぞんざいに扱われた。
 それでもわたしは彼女が与えてくれた大切な教訓を生かさなくてはならないとおもって、今日まで女性に嘘をつかずに生きてきたのだ。
 8年ぶりについた嘘だった。またしても彼女に対して。わたしは失敗を悟った。なぜ肝腎なときに誓いを破ってしまったのか。それはきっとわたしがいまだに彼女を愛しているからだ。愛しているから嘘をついてしまうのだ。愛していないと嘘がつけるのかもしれない。そんなバカな。ではわたしは愛している女性に対しては永遠の嘘つきでいつづけるしかないのか。わたしにはこれから死ぬまでにつく嘘の数と重みに耐えられる自信がなかった。だからわたしは正直に自分の気持ちをいった。
「8年ぶりの嘘だったんだ。ほんとうは君はだいぶ老けたよ。でもいまでも愛してる」
 と。
 彼女はさめざめと泣いた。わたしの正直さをわかってくれたのだ。そうおもって肩に手を乗せたわたしに、
「あなたを殺したいわ」
 といって、恐ろしい形相をして睨むと、いきなり平手打ちでわたしの頬を張った。まったくの手加減なしに。翌日わたしは髭も剃れず、同僚には頬についた指の跡を指摘された。
 わたしはいま、無条件で女性には二度とほんとうのことはいうまい、とこころにいい聴かせている。けれども、じつのところ、どうしていいのかわからないのだ。嘘をつくか、真実を語るか? だれか、わたしに適切かつ正確なアドバイスをくれないか? 嘘と真実を魔法のように使い分けている君、教えてくれよ。こういうときはこう、とか、こんなシーンではこう、といった条件付きでは困るんだ。だってわかるだろう、わたしはとっても不器用なのだから。どっちかひとつにしてほしいんだ。
 with D700 DISTAGON T* 2.8/25mm ZF 2009/8/16撮影 那覇
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by bbbesdur | 2009-11-09 22:01 | 短編小説