#699 痔の話 第23回 

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 手術が終了して小一時間ほど経ったころ、笑顔の看護師に促されて、ぼくは服を着て診察室に戻った。その頃にはすでに午後の診察が始まっていて、人々はどこかに疾患を抱えているはずなのに、不思議なくらい涼しい顔をして待合室に坐っていた。それにしても、いったい医師と看護師はいつランチを食べたのだろうか。食べたにしても、あまり美味しいランチではなかったのではないだろうか。ぼくは奇妙な責任を感じつつ、待合室の端に、極めてゆっくりと腰を下ろした。

 名前を呼ばれて診察室に入ると、目の前の椅子にドーナツ型のクッションが置いてあって、それだけのことでぼくは手厚い待遇を受けている気分になった。人は対価のあるなしに関わらず、必要なときに必要なことをしてくれる人に感謝するものだ。

 医師はぼくの顔を見て笑顔で「お疲れ様でした」と言い、脇に立った看護師も「お疲れ様でした」と呼応し、ぼくは試合後に監督とコーチから声をかけられた選手のように「お疲れさまでした」と返した。そこにはたしかにひとつの困難をともにしたチームの結束があった。なによりも医師の笑顔が手術の成功を物語っていた。

 医師は入浴や食事についてのいくつかの注意点を語り、あとは普通に生活して良いと言った。

 質問があるかという医師の問いに対してぼくは、

「あのビーチはどこなんですか?」

 と訊いた。

「えっ?」

「あの壁に貼ってある絵はがきのビーチです」

「ああ、あれですかあ、さあ、どこか外国の島じゃないですかねえ」

「効果あるとおもいます。多少なりとも気が紛れました」

「そうですか。それは良かった」

 すぐ脇に立っていた看護師がやにわに口を開いて、

「あれ、宮古島なんです」

 と言った。

「やっぱり沖縄でしたか、そうじゃないかとおもって気を紛らわせていたんです」

「良かった」

 看護師はとても嬉しそうにそう言って笑った。

「沖縄には若い頃5年間住んでいたことがあります」

「えー、どこに?」

 と看護師は突然ウチナンーチュのイントネーションになって、そう言うのだった。


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# by bbbesdur | 2017-07-27 21:01 | health care

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 医師がしばらく安静にしているようにと言って、カーテンの向こうに消えてしばらく後、ぼくは身体に異変を感じた。大イベントが終わった安堵の余韻に浸とうとしていたぼくだったが、じわじわと強まる便意(以降B意)にたまらずに看護師を呼んだ。しかし看護師は、そのB意は麻酔薬による手術特有のもので、ほんとうのB意ではないといって、なんとかがんばるようにとぼくを励ました。B意にさえ、本物とニセモノがあるのだった。手術台に横たわったぼくは人間社会全般にはびこる欺瞞と真実の総量を思った。オレオレ詐欺を引き合いに出すまでもなく、おそらくは真実を圧倒するとてつもない量の欺瞞が世に渦巻いていることは間違いのないところだ。あるいは真実のないところにも、果たして欺瞞は単独で存在することが出来るのだろうか? 表があるからこそ裏があり、たとえば美川憲一が存在しないで、コロッケが存在することが出来たのだろうか? とさらに考えを進めようとしたぼくだったが、しかしさらに強まる偽のB意にぼくはほとんど思考不能状態に陥っていた。

 カーテンを開けて医師が入ってきたとき、ぼくのB意はすでに暴発寸前に思われた。ぼくは平静を装って、あくまでも大ではなく小の方を想像させるような気軽な感じで、医師になにげなく「トイレに行きたいんですが」と言った。欺瞞は欺瞞を呼ぶものなのだと自身に言い訳をしつつ。しかし医師は騙されなかった。

「我慢してください。行っても出ません」

 とこの医師にしては、かなり明確にぼくの要望を拒絶した。ぼくのB意は弱まりはしなかったが、真実に欺瞞が怯んだ気配があった。

 ぼくは医師の言葉を信じて我慢した。じっさいぼくは手術が終わったばかりのクリーンな患部を最悪な形で汚染して、医師から再手術を宣言されることを恐れた。

 ところで欺瞞的なB意はどこか本質的な部分でホンモノのB意と違っていて、なにかしらフェイクっぽい感覚があった。しかしフェイクだから我慢できるかというと、それはまた別な話で、B意がB意であることには違いはなかった。B意が必要に迫られているために生じていても、必要でないのにたまたま副作用として(それは例えば右を押したら、左が出っ張るような事情で)生じていても、B意は紛れもなくB意でありつづけるのである。そこが中国製の偽ルイ・ヴィトンと違ってB意のような形のない感覚やら感情やらのやっかいなところだ。

 今振り返ってみて、今回の手術で一番辛かったのは、このB意を我慢している時間帯だったとおもう。なんとか競り勝ったと安心しかけていたところが、ロスタイムに予想外の猛攻を浴びて肝を冷やしたような気分だった。

 そして偽のB意は自身が亡霊であったことを認めるように、ゆっくりとぼくの身体から出て行ったのだった。


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# by bbbesdur | 2017-07-21 20:10 | health care


 医師がしばらく安静にしているようにと言って、カーテンの向こうに消えてしばらく後、ぼくは身体に異変を感じた。大イベントが終わった安堵の余韻に浸とうとしていたぼくだったが、じわじわと強まる便意(以降B意)にたまらずに看護師を呼んだ。しかし看護師は、そのB意は麻酔薬による手術特有のもので、ほんとうのB意ではないといって、なんとかがんばるようにとぼくを励ました。B意にさえ、本物とニセモノがあるのだった。手術台に横たわったぼくは人間社会全般にはびこる欺瞞と真実の総量を思った。オレオレ詐欺を引き合いに出すまでもなく、おそらくは真実を圧倒するとてつもない量の欺瞞が世に渦巻いていることは間違いのないところだ。あるいは真実のないところにも、果たして欺瞞は単独で存在することが出来るのだろうか? 表があるからこそ裏があり、たとえば美川憲一が存在しないで、コロッケが存在することが出来たのだろうか? とさらに考えを進めようとしたぼくだったが、しかしさらに強まる偽のB意にぼくはほとんど思考不能状態に陥っていた。

 カーテンを開けて医師が入ってきたとき、ぼくのB意はすでに暴発寸前に思われた。ぼくは平静を装って、あくまでも大ではなく小の方を想像させるような気軽な感じで、医師になにげなく「トイレに行きたいんですが」と言った。欺瞞は欺瞞を呼ぶものなのだと自身に言い訳をしつつ。しかし医師は騙されなかった。

「我慢してください。行っても出ません」

 とこの医師にしては、かなり明確にぼくの要望を拒絶した。ぼくのB意は弱まりはしなかったが、真実に欺瞞が怯んだ気配があった。

 ぼくは医師の言葉を信じて我慢した。じっさいぼくは手術が終わったばかりのクリーンな患部を最悪な形で汚染して、医師から再手術を宣言されることを恐れた。

 ところで欺瞞的なB意はどこか本質的な部分でホンモノのB意と違っていて、なにかしらフェイクっぽい感覚があった。しかしフェイクだから我慢できるかというと、それはまた別な話で、B意がB意であることには違いはなかった。B意が必要に迫られているために生じていても、必要でないのにたまたま副作用として(それは例えば右を押したら、左が出っ張るような事情で)生じていても、B意は紛れもなくB意でありつづけるのである。そこが中国製の偽ルイ・ヴィトンと違ってB意のような形のない感覚やら感情やらのやっかいなところだ。

 今振り返ってみて、今回の手術で一番辛かったのは、このB意を我慢している時間帯だったとおもう。なんとか競り勝ったと安心しかけていたところが、ロスタイムに予想外の猛攻を浴びて肝を冷やしたような気分だった。

 そして偽のB意は自身が亡霊であったことを認めるように、ゆっくりとぼくの身体から出て行ったのだった。


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# by bbbesdur | 2017-07-21 20:05 | health care