#261 バスに乗ったサンタクロース

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 白いコートに、さらに白い小雪が降りかかっていた。コートは上品で、暖かそうで、ひょっとするとカシミアかもしれない、と彼はおもった。出てきたバスカードを薄桃色の爪先でつまみあげながら、彼女はいつものようにまっすぐに彼を見て、
「こんばんは」
 といった。哀しいくらい美しい笑顔で。そんな彼女を見て、彼はほんとうに悲しくなった。この笑顔を、この声を聞くのも、今日が最後なのだ。
「こんばんは」
 彼は無理に笑顔をつくって、そう答えた。
 彼は12月25日生まれで、ちょうど60歳の明日で定年を迎え、クリスマス・イブのこの最終バスが最後の乗車だった。
 彼女はまるでそれが自分の予約席のように、運転席の真後ろに坐った。
 海岸沿いを走るこの路線は彼のお気に入りで、在職最後の年はわがままをいって優先した乗車を認めてもらっていた。30年以上かけて貯めた財形貯蓄を頭金にしてようやく買った自宅がちかくにあって、最終バスでそこにもどってゆく感覚が好きだったのだ。それも今日が最後だ。彼は運転席の左上にある時計を見上げた。
 22時50分。
 運転席の窓から駅の改札口を覗いて、乗り遅れた乗客がいないかどうかを確認した。最後のバスに乗客はひとり。ラスト・ランにふさわしい賑わいじゃないか。そう自虐的になりかけた彼だったが、背後で身じろぎする彼女の気配に、気を引きしめなおした。さあ、最後の一走り、メソメソしている場合ではない、きっちり最後まで安全運転で彼女を家まで送りとどけなくては、とおもいなおしてハンドルをおおきく右に切った。バスは低いうなりをあげて発進した。駅前のロータリーを半周し、TSUTAYAやマクドナルドが並んだ一角を抜けると、街道はすぐに暗くなった。
 半年ほど前から、彼女は毎晩この最終バスに乗って帰ってゆく。海沿いの道を抜けて、五つめの十字路にあるバス停で降りて、バス通りをそのまま海にもどるように歩いてゆく。彼はバックミラーに映る彼女の後姿を見ながら、毎晩、独り身の寂しさをかんじる。ことに昨年のクリスマスに飼っていた雌犬のピカを事故で失ってからは。
 海岸に向かう街路のプラタナスはすっかり葉を落とし、街灯があばら骨のような幹で路上に影を作っている。雪は激しくなりつつあった。ワイパーを止めたままにしておくと、フロントガラスを覆い始める。
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 念のためにブレーキのテストをする。だいじょうぶ。まだまだ路面はしっかりしている。
「ホワイト・クリスマスですね」
 背後で彼女がそういったとき、彼は彼女が同乗のだれかに話しかけたのだと不思議な勘違いをして、黙ったまま運転に集中していた。
「わたしの声が聞こえませんか、高橋さん、高橋正夫さん」
 そう呼ばれても、どこか上の空で、空耳のようにかんじていた彼だったが、さすがに名前まで呼ばれて我にかえった。なぜ彼女はわたしの名を知っているのだろう、と不思議な気分がつづいたが、すぐにフロントガラスの上部に貼られているネームプレートに気づいた。
「すみません、運転に集中していたもので」
 彼は正面からぶつかってくる雪に向かってそういった。
「そうですよね、こちらこそ、ごめんなさいね。運転の邪魔をしてしまって」
「いえ、大丈夫ですよ」
「高橋さん、今日で最後なんですってね」
 このときばかりは、さすがに驚いた。
「いやー、まいったなあ、お嬢さん、だれから訊いたんですか?」
「ないしょです」
 背後の彼女はそういって、くすりと笑った。
「悪いことはできないなあ」
 と答えながら、彼は何人かの同僚の顔をおもいだしていた。あんまり良い趣味とはいえないが、営業所の控え室で乗客が話題になることは日常茶飯事だ。いまどきの若い運転手は禁止されているというのに、気安く乗客に話しかけるから時代は変わったものだ。こっちも老いるわけだ、と彼はおもった。
「ながいあいだご苦労さまでした」
「なんだかねえ、定年だなんて、ぜんぜんそんな感じがしないんですがね。明日から、いったいなにをすればいいのか」
 彼は雪の向こうの路面に気を配りながらそういった。自分の胸の内をはじめて話す人物に語るなんて。彼はそんな自分にびっくりしたが、かんがえてみれば毎晩のように挨拶はしてきたのだ、とおもいかえした。
「ながいあいだには、いろんなことがあったでしょうね」
 そう、それは彼がこの数週間おもいつづけてきたことだった。定年を間際に、これまでの人生を振り返ったが、いろんなこと、などどこにもなかった。ひたすら毎日の運行でたゆまぬ安全運転を心がけ、人はおろか、犬猫いっぴきたりとも轢かずにきた。
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 それだけが自慢だが、事実ほかに自慢することなどひとつもなかった。会社の幹部はそれを褒めてくれるけれども、自分にはほかの生き方などなかった。あたりまえのことを、あたりまえのようにしかできない男なのだ、オレは。イエス・キリストとおんなじ誕生日でありながら、こうもちがう人生かい。まあ磔は勘弁してほしいとしても。彼はそうおもいながらも、しかし人生これからという若い女性を幻滅させたくはなかった。
「そうだね、いろんなことがあったよ」
 と彼は答えた。
「聞かせてほしいな、高橋さんの、そのいろんな話を」
 彼は黙ったまま、フロントガラスにぶつかってくる大粒の雪を見た。
 もちろん悪気のあるはずもなかったが、彼女の言葉に彼は傷ついた。いろいろどころか、彼は女性と恋をしたことすらなかったのだ。
 海に突き当たる交差点の信号は赤だった。彼はこころもち早めにブレーキを踏み、停止線から数メートル余裕を持たせて止まった。
 右方向からやってきた黒い車が黄色信号を無視するように勢いよく左折してきた。わずかに積もり始めた雪がタイヤを滑らせた。停車しているバスに驚いたように、運転席の若者はハンドルを切り、間一髪のところで車体を立て直して、走り去った。彼が停止線ぴったりにバスを止めていたら、まちがいなく事故になっていただろう。彼は、これまでなんどもこうして事故を未然に防いできたのだ。
「高橋さん、じつはサンタクロースだったのね」
 背後で彼女はそういった。彼には意味がわからず、
「おいおい、なにをいい出すんだい」
 と聞き返した。
「もしぶつかっていたら、彼は彼女との待ち合わせに遅れるどころじゃすまなくて、とっても惨めなクリスマス・イブになっていたんだわ」
 じっさい彼は事故を起こさずに済んだ男が、すこしは雪を意識して運転するようにと願っていた。
 信号が青に変わって、バスは海岸沿いの一本道に出た。
「高橋さん、お願いがあります」
 彼は背後にちいさく響いた彼女の真剣な口調に驚いた。
「なんだい?」
 彼はできるだけ柔らかな口調でそういった。
「高橋さんの最後の日に、わたしを自宅まで送ってください。もちろん知っています、それが重大なルール違反だということは。でもどうしても送ってほしいんです、高橋さんに」
 彼は驚きのあまり、返事をすることもできなかった。
「いや、それは・・・・・・、そんなことは・・・・・・」
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 そのとき彼の胸のなかに、これまで一度も冒険や逸脱をしたことのない自分の人生への悔いが生まれ、燃え広がるようにからだを熱くした。自分自身への恨みつらみが彼の頬を火照らし、ひどく喉が渇いた。いちども女性と付き合ったことのない自分がする、最初で最後のクリスマス・プレゼント。そうおもった瞬間に彼のこころはきまった。
「どこだい、お嬢さんの家は」
「高橋さん、一生の思い出にするわ」
 彼は高揚した心持ちのままアクセルを踏み込み、海辺の一本道を疾走した。オレンジ色のナトリウム灯が規則正しく彼の左頬を明るくしては、暗くした。きっと背後の彼女もいっしょに明滅している。クリスマスのイルミネーションのように。このままこの一本道を走りつづけたい。
 彼は海から荒々しく吹きつけてくる雪のつぶてと闘うようにアクセルを強く踏みながら、まるでちがった人生の一本道を走っているような心持ちになっていた。血が騒ぎ、若さが蘇ってきた。そうだ、オレは車が好きで、バスの運転手になったのだ。
 海から別れる三叉路の信号は赤だった。降りしきる雪のなかで、彼の行く手を阻むように真っ赤に燃えていた。唐突に突っ切りたいという衝動が生まれたが、おもったその瞬間に背後の彼女が息を呑んだ気がして慌ててブレーキを踏んだ。
 いつも彼女が降りるバス停が遠くに見えた。その三つ手前の交差点で背後から
「つぎの角を左です」
 という落ち着いた彼女の声が聴こえた。
――あり得ないバスルート。つぎの角を左に曲がると、別な人生がある。
 彼はそう信じた。
 自分が出したウインカーがカチカチといつもよりおおきく音を鳴らしているような気がした。左折したとき彼のこころは、嵐の後の水たまりのように静まりかえっていた。
 バスは細い道をゆっくりと進んだ。雪のなかを歩いている人は絶無だった。道は海へとつづく彼の散歩コースへと出た。バスの運転席から間近に見ると、住宅の軒先はずいぶん低く、見慣れた街がまるで知らない街のように見えた。
「つぎを右に」
 と彼女がいったとき、彼は、おや、とおもった。ずいぶん近所に住んでいたのだ。
「なんだ、町内会仲間だったんだね」
 彼は親しみを込めてそういったが、彼女は答えなかった。バスは雪のなかをゆっくりとすすみ、彼の自宅前を通過しようとした。そのときだ、唐突に降車ランプが点灯し、ブザーが低く鳴ったのは。
「ここです」
「おいおい」
 彼はなにかの冗談だろうとおもって、そう答えたが、かんがえてみれば彼女が自分の家を知っているはずがなかった。彼の笑顔はそのまま凍りついた。自分の心臓が鼓動する音を自分自身で聞くことができた。耳鳴りがした。右手が自然にドアの開閉レバーに伸びて、降車ドアを開けた。彼は振り向かなかった。
 バスの床にビッコを引く四つ脚が、ぎくしゃくとステップを降りてゆく音がした。
 彼は自分の視界が曇っているのは、雪のせいだとおもっていた。強さを増した雪のなかをバスはふらつきながら進んでいった。
「メリー・クリスマス、ピカ」
 走り去るバスの後部行き先案内板が、くるくると回って「回送」で止まった。

ー1年前に愛犬を失った沖縄の同僚Y.Tさんと今日退院したばかりのT.Tさんへ

 with D700 DISTAGON 2.8/25mm *T 2009/12/25撮影 自宅
 with GRD3 2009/12/22撮影 岩国
 with GRD2 2009/3/3撮影 鶴川駅
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by bbbesdur | 2009-12-25 23:54 | 短編小説