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#182 続アニタ・レイの呼び声 第4回

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 山のなかには朝靄が立ちこめていた。人がひとり歩める程度の細い道が緩い勾配で先へと延びている。Yさんが前を行き、ぼくはときどき後ろを振り返る。猿の群れの気配はない。ぼくたちはつけられてもいないし、待ち伏せされてもいない。猿たちは人が道を歩むことを、道しか歩めないことを知っている。だから人の道に現れることはない。ヒトは自然界の王者なのだ。ぼくは自分とYさんがティラノザウルスになって、山道を歩んでいる想像をした。怖いものなんてない、100匹の猿の集団だって、たったふたりの人間を恐れるのだ、と。
 やがて道は道のようではなくなり、細長い糸のような踏み跡のようになっていった。Yさんは、確固たる自信を持って先を歩んでゆく。ぼくも彼の背中を見つめながら、彼がこの山に受け入れられているという印象を持った。
 頭上の樹々が疎らになってきて左手の谷底で川面が光っていた。
「あんなところに」
 Yさんが指差すあたりに2頭のニホンカモシカが朝日を浴びて気持ち良さそうに歩んでいた。
 やがてまた道は樹々に覆われ、視界が利かなくなると緩い下りとなって、ぼくたちを谷の低みへと導いていった。山道から朝靄は消え、道がぬかるんできて、湿り気とともにときどき名も知れぬ花の甘い香りが漂ってきた。
 ほとんど唐突に水音が近づき、山道は川に落ちるようにして終わった。ぼくたちは道から川に呑み込まれるように太腿まで水に浸かって先に進んだ。すぐに河原が現れた。
「さて、朝のコーヒーでもいれるとするか」 
 Yさんはそういって、リュックを降ろした。ぼくはコッヘルで川の水を汲み、携帯コンロの火をつけた。力強い音とともに透明な炎が吹き出てきて、コッヘルのなかの水はすぐに湯気を上げて湯に変わった。
 コーヒーの香りは山のなかではどこか場違い的に洗練され過ぎているけれども、部屋で飲むときよりも、ずっと暖かく胃に沁みこむ。森の緑を眺め、透明な流れを見つめ、ときどき空を見上げていると、自分がおそらくこの瞬間にかぎっては幸福であると信じられるときがある。
 カップに残ったコーヒーを川に流し、どこか決然とぼくたちは立ち上がる。釣りは遊びなのに、ときどきこういったケジメが必要になるのはおかしい。山を登るの苦しいし、川を遡るのも楽じゃないのだ。
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 樹々のない平坦な河原にはおおきさが揃った石が転がっていて、とても歩きやすかったが、川には魚が潜んでいそうなポイントがなかった。そのまましばらく進むと、川は突然直角に左に曲がり、いきなり直径1メートルを超える岩がごろごろと積み重なる荒くれた溪相に変化していた。ぼくがそのあまりの急激な変貌にあっけにとられ、階段状につづいている岩場を見上げていたときだった。Yさんの興奮を押し殺したような声がして、彼のバンブーロッドは半月に曲がっていた。
「おかしいな。この岩場を抜けた上流からがポイントだと聞いていたんだが」
 といって、しかしとても満足そうに笑った。ぼくはといえば、まだ竿をつないでさえいなかったというのに。その日の魚釣りは、こうしてややトリッキーに始まったのだ。
 ぼくはのんびりと煙草に火をつけたYさんの姿を見て、すこし慌てた気分で釣りの準備を整えた。ぼくたちの釣りは競争じゃないはずなのに、相棒が先に良い型の魚を釣り上げると、こころのなかにちょっとした焦りが生じる。
 ぼくは魚がいそうなポイントに毛針を投げ入れたが、情報通り、岩場にイワナの気配はなかった。おおきな岩を這いずり上がるようにして何度か越えた。帰り道はちょっとばかりやっかいだな、という気持ちが湧いていた。
 樹々の屋根が切れるあたりで、岩はみるみる小ぶりになって、ひとまたぎにできるようになった。
 つづく
 with E-420 Leica VARIO-ELMER 3.5-5.6/14-150 ASPH  2009/7/25撮影 東北
by bbbesdur | 2009-08-06 22:01 | flyfishing