#171 蝉  第1回

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 10年ちかく会っていない父から電話があって会いたいという。
「なにか用があるの?」
「いや、しかし、ながらく会ってないじゃないか」
 5年前にもおなじような電話があったが、わたしは携帯電話にのこされたメッセージを削除して、父からはそれっきりになった。
「いつ?」
「いつならいいんだい?」
 春からつづいていたおおきな仕事が一段落していた。時間はあるはずだった。
「すこしだけなら、なんとかなるかな」
「すこしだけでいいんだ」
 また金の無心だろう。最後に会ったのは新宿で、そのときわたしは父に30万円が入った封筒を手渡し、そのまま南口の甲州街道前で別れた。今回もさっさと渡して、帰りに紀伊国屋にでも寄ろう。
 わたしたちは新宿中村屋の前で待ち合わせた。父が指定したのだ。梅雨明け直後の太陽に新宿の街は燃えているようだった。すこし歩いただけで額には汗が滲んだ。ハンカチを忘れてしまっていた。電話さえなければ、空調の効いた自分の部屋で読みかけの長編小説を読んでいられたというのに。
 左右に行き交う人波の奥に、見覚えのある顔があった。約束の時間にすこし遅れた。父は以前よりも日焼けしていた。すこしも年老いて見えなかった。わたしたちは短く意味のない挨拶をして店内に入った。窓際の席が空いていた。
 父はビールを注文した。昼間から飲む習慣は変わらないようだ。
「相変わらずだね」
「おまえも飲むか?」
「いや、いいよ」
「そうか」
 父は日曜日になると昼間から酒を飲む。いっしょに暮らしていたころから変わらない。狭いアパートの一間しかない六畳間に寝転がって鼾を掻き始める、そんな父を見るのがとても嫌だった。日曜日になるときっと図書館に出掛けるわたしを父は、エラいなあ、オマエは、といって寝たまま振り向きもせずに送り出した。狭い部屋で父と顔を突き合わせているより、広々とした図書館で蝉時雨を聴きながら昆虫図鑑を眺めたり、ストーブにちかい席で冒険小説を読んだりする方が愉しかった。
 料理はわたしが作った。中学校と高校の弁当も自分で作って持っていった。10数種類の決まった献立しか作れなかったけれども、それ以上工夫する気もなかった。父は料理についての批評をしなかった。つまりおいしくなかったのだと後年気づいたのだが、じっさい当時は味なんてどうでもいいとおもっていた。そんなわたしの極めて限定的な料理群の中で、唯一父が食事後に満足そうな表情を見せるのが、ハウス・ジャワカレーだった。夏はカレーを食べながら首に巻いたタオルで汗を拭いた。
 その日、父は中村屋でジャワカレーを注文した。
「どうだ、仕事の方は?」
「忙しいよ」
「そうか、それはいい」
「最近は海外出張がおおくてね」
「ほう、そうかい」
 わたしの口調にどこか自慢げな響きを聴き取ったのだろう、父はそう返すと窓の外を見た。四階から見下ろす夏の新宿を往き交う人々の動きはのっそりとしていた。こうして見ると乾き切ったこの街路にも緑はないわけではなく、ちかくに油蝉の鳴き声がしたが、すぐに止んだ。
 わたしと父はおたがいに窓の外を向き、ほぼおなじタイミングでコップに注がれた水を飲んだ。そのとき窓に礫のような物が当たり、驚いた父のコップから水が零れ、ズボンが濡れた。わたしはハンカチを出そうとして、忘れてきたことにおもいあたり、仕方なくスプーンに巻かれた紙ナプキンを取って父に差し出した。
「いいよ、どうせこんなぼろ服なんだ」
 父の装いを改めて見たが、ぼろとはいいすぎだろう。濃い茶色のプリントシャツとベージュのスラックスの組み合わせは見るからに暑苦しいが、ひとり暮らしの男としては合格点をあげてよかった。
 窓にぶち当たってきたのは蝉だった。コンクリートとアスファルトが地面を埋め尽くしているこの一帯で、街路樹の根元のほんとうに僅かに露出した土の中からから這い上がり、成虫に脱皮してこの街を飛んだのだ。
「蝉か」
「うん」
 窓の桟に脚を掛け、這い上がろうとするがガラスが滑ってどうにもならない。脚をあげてはおろすおなじ動作を繰り返しながら、徐々に窓の端に寄っていく。わたしと父は話題を見つける努力をしないまま桟の内側にはまって、じりじりとうごく蝉を見ていたが、やがて父は口を開いた。
 つづく
with GRDII 2007/10/27
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by bbbesdur | 2009-07-25 02:49 | 短編小説