山奥の口紅

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 携帯電話の電波がとどかない。そしてぼくにはどうしてもすぐに連絡する必要のある相手がいた。高知の山の奥の、そのまた山の奥の急峻な崖にへばりついているようなちいさな村には売店すらなかった。道端を歩いている女性を見つけてぼくは車を止めた。
「近くに公衆電話はありませんか?」
 ぼくの問いかけに、この写真の女性は、
「公衆電話はないねえ」
 と答えた。そして、
「公衆電話はないけれども、ウチの電話はある」
 といった。
 ぼくは固辞したが、彼女は頑固だった。彼女に導かれて家のなかに入った。彼女はありとあらゆる言い訳でもって、家のなかが散らかっている理由を説明した。それでも彼女は恥ずかしそうに身悶えるようだった。わるいことをしたなあ、とぼくは後悔した。ご主人に先立たれてもうずいぶん経つらしい。子供たちは東京と大阪で暮らしていて、孫もいる。お盆とお正月にはもどってくる。孫を引き連れて里帰りする子供たちの、年に二度の帰郷をどれだけ待ち焦がれているかが容易に想像できた。そして彼らが帰ったあとの静けさも。
 家のなかはとてもきれいに片付けられていた。手作りらしきビーズの飾り物やクリスマスのリースがずらりとならんでいた。そして自作の俳句が壁に貼ってあった。農作業のための早起きが辛く、寒さのせいにしていたけれども、そんな言い訳ができないくらい季節は進んできた、というような内容だった。
 高校の3年間は都会に行っていたが、それ以外はこの山奥から出たことがないという。都会とはどこかと問うと、松山だと答えて、懐かしそうな表情をした。
 ぼくが電話をしている間、彼女は家の外に出てくれていたが、用事があったわけではなかったはずだ。
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 無事に連絡が取れたぼくは礼をいい、東京への長電話であったことを伝え、費用を払わせてほしいと頼み込んだ。もとより困難なことだとわかってはいたが、やはり彼女にはお金を受け取る気などさらさらなく、不思議ないい方をしてぼくを納得させた。
「用事は済んだんだね?」
「はい、おかげさまで」
「じゃあ、それでいいじゃない。男らしくあきらめなさい」
 ぼくはお礼になるものを探したが、あるのは朝、松山のコンビニで買った菓子パンだけだった。それでもぼくはどうしてもお礼をしたかった。だからそのパンを差し出した。意外なことには、彼女は素直にパンを受け取った。しかしすぐに奥に引っ込み、もどってくると蕨を一束持ってきて、ぼくに持たせた。じつは今朝採ったばかりのところに、人からもらって困っていたところなのだという。ほんとうかどうかわからなかったが、ぼくはもう完全にあきらめて、ずっしりと重い朝採りの蕨を受け取った。 
 それで、ぼくはいった。
「じゃあ、お礼に写真を撮らせてください」
 なぜそれがお礼なのかぼく自身にもわからなかったが、その奇妙な論理はどこかそのときの二人の間に説得力を持っていたのだ。彼女は、じゃあ、しかたない、といった。写真を液晶画面で確認したとき、ぼくは初めて彼女の紅に気がついた。
 ぼくはこの数十年したこともないような深々としたお辞儀をしてから、車に乗り込んだ。車の窓を開け、おおきな声で、ありがとうございました、といった。
 走り出してすぐ、道路脇にゲートボール場が見えた。もしかすると、とぼくはおもった。蕨だって、そうかもしれない。山奥に住んでいる老女が一人孤独に暮らしているというのは都会の男の勝手な妄想なのかもしれなかった。
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 窓の外には眩しすぎる新緑の世界が広がっていた。ぼくはいつまでも艶やかな彼女の口紅のことをおもいつづけた。
 with GRDII、E-420 ED14-42mm F3.4-5.6  2009/4/24撮影 高知県
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by bbbesdur | 2009-04-25 14:08 | west japan