#688 痔の話 第14回 男はつらいよ


午前中の患者たちが去った後の待合室はガランとしていて気持ちが良かった。緊張してはいない。ぼくはそう思いたがっていて、客観的に自分の心境を分析することが難しいシーンだった。しかしながらぼくは経験的にそういったケースではほぼ100%自分が思いたがっている方とは真逆に真実があることを知っている。だからぼくは自分が緊張しているのだと判断した。窓の外で気持ち良さそうに揺れている欅の葉を眺めながら、緊張しているのに緊張していることを認めたくない自分を男らしいと思った。ジョン・ウェインやハンフリー・ボガート演じる主人公が痔の手術を受けたなら、きっとこんな感じだろうというような。そんなヒロイックなぼくだったが、診察台のある部屋から看護士が顔を出し、ぼくの名を呼んだから「あっ、ハイ」と答えて立ち上がった。診察室はいつもと変わらず病院らしい消毒液の匂いを漂わせていた。

手術とはいえ、いつも診察を受けるときとさほど心境に違いはないように思えた。もちろんそう思いたがっていたわけで、だからほんとうはとっても緊張していたわけだ。ぼくの脳はかなりズル賢くて手強いから、すぐにぼくを騙しに掛かる。いろいろと心理的な分析をしてからでないとほんとうのことがわからないから手間が掛かって仕方がない。それで思い出したけど、男と女の最大の違いって知ってるかな?

「女は自分を騙すことが出来る」

らしいんだけど、女性の皆さん、ほんとうですか?

と書いたところで、突然この言葉の出処を思い出した。なんと、前回久しぶりに名前を思い出した田村隆一じゃないか。これはストーリー展開上意図的に仕組んだんじゃなくて、いまじつは飛行機の中でこれを書いているんだけど、じっさいビックリしたのだった(ストーリー展開って何のこと? 今回も全然展開してないじゃないの! という声が聴こえてきそうだとしても)。普段彼の詩のことはほとんど忘れて生活しているけど、印象的な言葉はしっかり脳内に定着していて、知ったかぶりをする必要のあるこういうシーンでポン!と出てくるものなんだなあ、と感慨に耽りつつ、ぼくは窓の外に広がる雲海を眺めるのだった。今日はかなり揺れが激しくて、さっきフライトアテンダントがコーヒーのキャップを持って来た。メチャクチャ明るいアテンダントで、思わず「明るいねえ」と声を掛けてしまった。コーヒーのキャップを持ってくるだけのことで明るさを表現するのって至難だとおもう。彼女が乗っている飛行機だったら絶対に落ちないと思えるくらいの明るさなのだ。明るいって、ただそれだけで他人を幸福にする。ユナイテッドにも彼女みたいなアテンダントがいれば、あんなことにはならなかったかもしれないけど、で、なんだったけか、そうそう、若い頃に田村隆一のその言葉を知って、ぼくはハタと膝を打ったのだった。なにしろ5回結婚している男の言葉だけに説得力がある。ウイスキーを薄めるように言葉を意味で薄めてはいけないというストレートな詩人だ、言葉は戦艦大和の錨のように重い。なんだか女性の不思議が解明出来た気さえしたのだった。

この世の大半の女性においては、何はともあれ、自分が他人からどう見られているか(内面外面共に)という一点が最大の関心事だとぼくは信じている。よく言われる「男っぽい女性」は見かけとは無関係にこの一点の印象が女性らしくないと思わせているんじゃないかとおもうのだ。いずれにしてももし自分を騙すことが出来るなら、どう見られているかという点ではかなり都合の良い解釈が出来るだろうな、人生を楽に出来るだろうな、と男のぼくは羨望するのです。

で、女性の皆さん、自分を騙せるってほんとうですか?

と聞いてもわからないところがミソなんだよね。なんたって自分を騙せるんだから。男は自分を騙せないからつらいんです。

診察台に横になったぼくはツラツラとそんなことを思っていた、わけではなく、じつは、生まれてこのかた自分が手術と呼ばれる措置を受けたことがないことに初めて気付き、どこからともなく忍び寄って来た不安と恐怖をうっちゃろうと、3ヶ月後に予定しているイエローストーンでの釣りのことだけを考えることにしたのだったが、ウォシュレットのないモーテルやそれどころかトイレすらないキャンプのことを思い出して暗然としたのだった。こういうときにこそ底抜けに明るい看護士がいて欲しいとおもうほどに。


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by bbbesdur | 2017-04-17 20:00 | health care