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#376 聖母の泪

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 プラットホームはあのときとおなじように、たくさんの人でごったがえしていた。この駅だった。クリスマスイブのあの日、彼女は吊り革につかまりながら、窓の外を見ていた。京浜東北線と山手線がおなじホームに発着する駅でのことだ。
 彼女が乗っている山手線の車両は反対側のホームから乗り換える乗客を待っていた。京浜東北線の車両が停車すると、開いたドアから乗客が溢れるように出てきた。
 ひとりの男がいた。
 窓の外を眺めていた彼女は人ごみを掻き分けてくるようにして車両にちかづいてくるその男を、おそらくは車両のドアが開いた瞬間から見つめていた。男が格別目立つ服装をしていたわけでも、ルックスが良かったわけでもない。
 ただ、わたしには目立っているのだ、とおもったとき、彼女は恋に落ちた。
 男は車両に入ってくるなり、まるであらかじめそこが定められた空間であるように彼女の左脇に立った。
 男の身体から、南の島に咲く花のような香りが漂ってきた。彼女はひっそりと目を瞑り、男とふたりでだれもいない島の浜辺に寝そべっている自分を想像した。音もたたないほどに静かな波がふたりのからだを舐めるように満ちては引いていった。
 ふいにちいさな風が巻き起こり、目の前の乗客がふたり揃って立ち上がった。彼女が波間に身を沈めるように座席に坐ると、男も夢のなかに倒れ込むように彼女の隣りに坐った。
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 日は高く、海岸に立つ椰子の木が白い浜辺に黒く細い影を作っていた。ふたりが頭上の椰子の実を見上げると吊り広告には「カップルで行く大人の沖縄」とあった。男の体温が伝わってきて、いっしょに行かないか、という声が聴こえたような気がした。彼女は、ただちいさくこくりと頭を垂れた。
 ふたりは寄り添うように浜松町で降りて、羽田空港に向かった。
 不思議なことには彼女には罪悪感も高揚も、あるいは感情すらもなかった。恋をしているのに、こんなことってあるの? と彼女は自分に問いかけたが、わからなかった。彼女は自分に訪れるべきときが訪れているのだとおもった。
 沖縄ではいつもの倍以上の速度で時間が流れた。時間が飛ぶように過ぎてゆくのだ。たちまち夜が来て、ベッドの上で彼女は泣いた。快楽で泪が流れ出すことを初めて知った。まどろんでいたはずが、すでに夜明けだった。朝の砂浜に出てのんびりとするようなことはできなかった。ふたりは出発時刻ぎりぎりまで愛し合った。
 帰りの便が羽田に到着し、ふたりはモノレールに乗って浜松町にもどった。
 そうして、出会ったこの駅で男は降りて、京浜東北線に乗り換えた。男は振り返らず、ぽっかり空いた車両ドアの空白のなかに消えていった。
 彼女は吊り革につかまったまま、幸福そうに微笑んだ。ふいに目の前に坐っていた中年の女性が立ち上がり、彼女に席を譲った。
「もうすぐね」
「ええ、もうすこし」
 彼女はすでに立派な母の表情をしてそういった。
 with GRD3/D700 Tamron90/2.8macro 12月東京
by bbbesdur | 2010-12-26 00:33 | 短編小説